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熊野路

佐藤春夫


     勇魚とり

  三国一ぢや

今宵夢見た目出度ものを座頭枕に子持を前に旦那盃さすを見た。たんに立つたる茜はちまき誰ぢや。お礼ぢや。覚右衛門様羽ざし座頭掛けに来た。遭ぎに来た。旦那百までわしや九十九までともに白髪のはへるまで。
——太地鯨方出初其外祝競の節網勢子羽指共酒給ひ候節の歌

 勇魚とり——捕鯨の事業に至つては海の幸の筆頭であらう。熊野の捕鯨は古来海内にその名を知られたものである。神武天皇が御東征の御砌、「いすくはし鯨さやる」の御製を遊ばされたのも御東征の御道筋に当る熊野灘を御通過の御時に御覧になつたのをありのままに仰せいだされたかとも拝察し奉るけれど、この問題はただ想像にとどめるだけである。何しろ、御東征の御道筋に関しては先進の諸大家にさまざま研究の発表があるやうだけれどそれもどれに従ってよいかすらも判断出来ない。

ただ新宮市外の御手洗(ミタライ)は御東征の御砌、帝が丹敷の余党を三輪崎に平げ給うた御手を洗ひ清めさせ給うたところと土俗が相伝へてゐる事だけ位を記すにとどめて、七里御浜といふのはこの御手洗を南端として前述の鬼ケ城に終るあたりまでの間の松原つづきの浜のある、熊野にはめづらしい長汀であると補記して置く。

この沖を黒潮に乗つて出没する鯨は旧暦九月の末から冬の終までを東から西に浮び出るこれを上り鯨といふ。西の海で子を産んだものが子を連れて再び西から東に向ふのは旧暦の三月一杯位である。それが下り鯨である。捕鯨は多く冬中の上り鯨を獲るのである。往年は一年に大てい七八十頭、少い年はこの半分位と言はれたものであるが現今はこれを得ることが甚だ稀である。

 九州の五島の海や、土佐其他にもこの事はありながら、捕鯨 とさへ言へば必ず先づ熊野を思ひ出す程で、漁獲が稀になつた近年でさへも熊野と捕鯨との聯想は永年の伝統からまだ消えない。それ程であるから、筆者もこの話題に関しては紙数を惜しむわけにゆくまい。

 濫獲の結果往年の盛況はなく殆んど廃業の観があるけれども、それでも大正六年の東牟婁郡(熊野捕鯨の本場)の捕鯨高表といふのがあるから引用する——

種類 頭数 価格
長鬚 二八、一一五円
白長鬚 二三、二七六
末鰮 四四 三九、九三九
能曾 二、八三一
合計 五六 九四、一六一円

 座頭や背美などの古来珍重したものは一頭もなく徒らに長大なだけで油を得る料にしかならないといふので昔はわざと獲らなかつた長鬚の数や末鰮などやつと物の数に加はるといふだけのものばかりと思ふのに、それでもその総価格は相当に上ってゐてなか〳〵馬鹿にならない。

 それでは鯨のうちどんな種類のものが何故珍重されるか、古来熊野六鯨と請はれてゐるものを左に数へて見る。

座頭鯨(ざとうくじら) この鯨は背に植鰭があって琵琶鮮と名づけてゐる。この鰭を負うた形が座頭に似てゐるところから名づけたといふ。長さ三尋位から八尋位に及び味美し。

背美鯨(せみくじら) 鯨中の最上種で背の肉が殊に美味なところから「せみ」の名がある。長さ四尋位から十一二尋に及ぶ。

末鰮鯨(まつこうくじら) 又音に従つて抹香鯨とも字を当てる。長さ一二尋から十五六尋まで。油を採る方を主とし、食用には適せぬ。歯は印材に用ゐられる。千筋は唐弓の絃となる。千筋の本即ち膜を「トコ」と呼んで食用に供す。この鯨にのみあるものである。

児鯨(こくじら) 六鯨中の最小なもの故にこの名がある。長さ三尋位から五六尋位。

堅魚鯨(かつをくじら) 又は鰯鯨とも呼ぶ。堅魚や鰯の群を追つて来るからこの名がある。長さ三尋位から五六尋位。

長鬚鯨(ながすくじら) 六鯨中特に長大なので名づけた。長さ十三尋から二十尋のものさへある。しかし不味なので昔時はあまり獲らず獲つても搾つて油を採り、又肥料としたものであるといふ。

 これで見ても大正六年の漁などはどんな貧弱なものであつたかがわかる。それでゐて利得は尠少でない。現代よりももつと珍重された時代にいい種類のものが七八十頭も獲れた頃の盛況も推察するに難くないわけである。昔日は藩侯をさへ羨望させたものと見えて、はじめは民間の事業者に保護を与へるといふ名でこれに渡りをつけてゐたのが和歌山で追追と本式に自分で事業に乗り出して古座を本拠とすると新宮藩でも三輪崎に本拠地を置いてこれに従事した程であつた。

さればこそ西鶴が日本永代蔵の巻二に「天狗は家名の風車——紀伊国に隠れなき鯨ゑびす」といふ成金話があるわけである。それに紀路大湊泰地といふ里とあるのは考へるまでもなく紀州の太地浦——現に東牟婁郡屈指の盛大な漁港太地町の事に相違ないと思ひ当るのである。この地こそ熊野捕鯨の中心地だからである。

比浦に鯨突の羽指(鯨船の指揮者の意)の上手に「天狗の源内といへる人」とあるのは「近年工夫して鯨網を拵」などの句によつて鯨を網によつて捕獲する事を創案完成した土地の大庄屋役和田覚右衛門頼治が事に凴つたに相違ないと思ふ。事実、彼は熊野捕鯨業の中興の祖ともいふべき人物で、その鯨網の創案は延宝五年で、永代蔵の成つた元禄元年から十二三年前に当る延宝五年以後年々の工夫によつてそれが大成したのは天和三年であつた。元禄元年を去る四年前に当るから「近年工夫して鯨網を拵」の文句にも適ふわけである。

彼の鯨網発明は、そのころ背美鯨、児鯨などの銛では捕獲し難い種類のもののみ多く出没して従来 の銛突きの方法が殆んど無用に帰したのに対応する必要から出た新工夫であつたと伝はつてゐるが、その創案の延宝四年以来年々の試みが重つて大成するに従ひ、彼の発明の恩恵によつて頓に発達した熊野の捕鯨は天和三年癸亥の暮から翌甲子の春に至る一年の間に同地方の捕鯨高が座頭鯨九拾壱頭、背美鯨弐頭に上ったと伝へられてゐる。

これを前記の大正六年の捕鯨高表と併せ見ると思ひ半、往年の盛大に転た一驚を喫するものがある。否平均七八拾頭、少い年はその半数といふ昔時の平均から 見ても正に例外の大漁であった。これ等九拾参頭が殆んど皆前年度まで逸してゐた種類のやうであるから、数年分を一度に捕獲したやうなわけではあるが新方法の効果百パーセントを事実で示して発明者の名誉が大に四方に喧伝されたのも尤もな次第。西鶴もこの噂を四年後の元禄元年上梓の永代蔵に書いた事になる。

 抑も熊野の捕鯨の起源は秦の始皇帝の暴政を逃れて三千の童男童女を伴つて蓬莱に不老不死の仙薬を求めると、熊野地方に漂着した方士徐福がその法を伝へたとかで、その捕鯨の歌といふものに

大島原からよせくるつち(槌鯨)を二十余艘奏氏がさしてとる

といふのがある。秦氏とあるは徐福のつもりらしい。徐福又はその従へた童男童女の裔といはれて秦氏を姓としてゐる家族は熊野で時々見かけるところである。また秦徐福の墓と伝へるものが新宮市にあつてその附近は今徐福を町名としてゐる答である——近年彼地に行かないから伝聞するだけで不確だけれども。筆者が雅印に家在徐福墓畔の文を用ゐるのも赤これに由来してゐる。

 徐福から熊野の捕鯨がはじまるまではその由来の古い表現にはなつても寧ろ神話に類するからせめては伝説あたりまででもと辿つて見ると、和田義盛の一族といふ太地の郷士和田頼元が慶長十一年、泉州堺の浪人伊右衛門、尾州師崎の漁師伝次の両人と謀つて銛を用ゐて捕獲する事に成功したのを以て剏始とす るといふ。その後和田一族が栄えて分家八戸に及んだうちから前記覚右衛門頼治が出て網を以て鯨を捕へる法を発明して中興の祖となつたわけである。

 この一族を和田義盛の裔として村人一同が御一家と敬称してゐる次第を彼等一族の古記録によつて見ると「三浦大助の男義盛(和田坂に住して和田姓を名告った)の三男、朝比奈三郎義秀建平三年五月の戦——義盛が北条義時を除かんとして敗れしもの世に請ふ和田合戦の末、逃れて太地に来り住し海岸の洞窟に塾居して世を忍び、道通と号した。道通と号した義秀が塾居の跡は今も太地に和田の岩屋と呼ばれて存してゐる。

道通は土民の女によつて一子を得たまま去つて後行く所を不知。比一子頼秀姓は祖父を継いで和田氏を名告る。太地の和田、所請御一家の祖である。一族中後に豊臣氏に仕へて征韓役に陣歿した勘 之丞頼国の弟忠兵衛頼之の孫忠兵衛頼元は官を辞して郷士となつた者で、和田氏の捕鯨業はこの人に始まるといふ。

勇士朝比奈三郎が志を得ずに南海の地に逃れ漂ふ間に昔日の北畠師房の故智に倣つて熊野海賊を糾合し——自ら水軍の将帥となってゐた者の後が一類を統率して捕鯨業を興すとなると大衆小説めく が、法螺の音勇しく隊伍堂堂と各厳重に部署を守つて業務に従事する熊野の捕鯨はもと熊野海賊が命がけの内職であつたらうといふ想像の成立はそれが徐福伝来といふ神話めくものよりは幾分現実性があるつもりである。

なほ朝比奈に就て云へばこれも大衆小説的人物だが普通和田合戦後千葉にゐてから後がわからなくなつてゐるのを我々は太地の岩屋で再び見出す次第であるが、由来房州辺と熊野とは潮流の関係で交渉の深い地方といふことになってゐる。房州の勝浦は紀州勝浦の漁民が何かの機会で移住した土地でもあらうか漁法や風俗習慣など奇妙に相似てゐるところがあると、紀州勝浦の人が言ってゐるのを聞いた事があるのを真偽は保し難いが記して置く。

 中興の祖覚右衛門頼治が出て網を用ゐて鯨を捕獲する法を得た一方に、漁船も改良、一層完備し業務は利益の多いものとなるにつれてこれに倣ふ者が追追と多く、捕獲事業は三輪崎、古座、阿多和、二木島方面等南北牟婁や西牟婁さては土佐等にまで及んで西国一帯の鯨方十一組の多きに及び、それが皆頼治を元締と仰いだ。

 頼治は隠居して総右衛門と名告り、その子覚右衛門に家督を譲つたが、二代目の覚右衛門が初代に劣らぬ傑物であつたから子孫は世世所請、覚右衛門組、太地組鯨方の総元締を世襲して覚右衛門を名告り明治に至るまで地方有数の長者として尊敬された。地方の俗謡にも、

太地覚右衛門大金持よ、
せどで餅つく
座敷で碁うつ
沖のとなかで鯨うつ

と謡ひ伝へてゐる程である。漁法が後年大砲に変つた今日鯨うつのうつは撃つと誤解されさうだけれども、銛は突くとも打つとも言はれたものらしい。熊野地方で幼年者の持つてゐる皿の菓子などの美味なのを巻き上げる時に狡児は、戯れて鯨を獲る話を教へようと誘ひ出して、目的物に、「そうら一のモーリ(銛)二のモーリ(銛)」などと拍子面白くもちかけて箸や火箸 を打ち込んで見せて、その興味に釣り込まれ果てたころを見すまして、ソーラ三の銛、鯨がトレタトレタなどと目的物を箸と一緒に持ち上げて来てしまふのであった。質の悪い遊戯だけれど郷土色があるところがをかしい。あみだくじの残り物の一つなどは大ていかうして飛んだ覚右衛門殿にせしめられるのが普 通である。

 西鶴の所請天狗源内の初代覚右衛門は申すまでもないが、二代目もよほどの智者であつたと見えて、自己一身の繁栄を謀らず、これを一村に施して法の宜しきを得たので当時二百五十余戸に過ぎなかつた一寒村の太地は一躍数百戸の有福な邑となつた。俗謡が永く覚右衛門を讃美してゐるのもこの有徳に酬ゆる気かも知れない。

藩主は特に和田氏に太地姓を賜ひ、鯨肉を命ぜられる光栄にも浴した。紀州側の伝へによると土佐の捕鯨も元禄年間土佐国津呂の人奥宮氏が故あつて久しく太地に寄寓中遂に捕鯨網漁法を伝習し彼地で行つたのが濫觴であると言つてゐる。太地鯨方は、寛政年間七代目の覚右衛門に至つて一時殆 んど廃業の有様に瀬してゐたのを和歌山の藩主が保護後援して再興継続せしめてゐたのが後に再び和田氏の独力の事業になつてゐたのに嘉永三年稀有の不漁に引続いて安政元年冬地方に前代未聞の大地震に伴ふ海嘯のために本宅から倉庫一切を洗ひ去られる悲運につづいて捕獲も乏しく衰運に赴いて昔日の盛大は俗謡に伝はるばかりとなって明治に及んだ。

その十一年十二月二十四日夕方「夢にも見るな」とさへ戒められてゐるほど勢猛き「背美の子持」を獲ようとして遭難し全員二百人(普通は五百人を要すると云はれてゐるのにこの時は二百人程であつたと見える)のうち生還したもの十三人といふ悲惨事などもあつて業は一大打撃を受けたのでその後の十年間は全く苦境に陥ち断続的に転々と種種の人によつて経営されてゐたのを、二十二年 からは東京の人平松氏の手に移つたのも二十五年に一時中止となった。三十三年熊野捕鯨株式会社の設立を見たがこれ赤不結果に終つてゐたのに、三十八年下関の東洋漁業会社が新式の捕鯨船を熊野に送つて、この一年間に百六十八頭を捕獲し、当時至極低廉な値段でありながら参拾八万といふ奇利を占めたので、我国各地の捕鯨会社が一時に熊野に着目したのが、みな不結果で追追と引き上げてしまつて現代は殆んど廃業の状態である。

新式の漁法は北欧の式で、紅毛の砲手に師導されて大砲を以て射殺するものであるが採油にはともかく、食用としては味を傷けると、昔をなつかしがつてゐる人が多かった。捕獲法の罪ばかりではなく、食用に適するものが先づ獲り尽されて後、他種も追追と絶滅に瀕してゐるのであらう。往年の濫獲の結果に相違ない。すると西鶴の所請天狗源内の時代が熊野捕鯨の全盛期に相当するものである。

 最旧式の銛で突く捕鯨法に用ゐた船は一般に七挺櫓を具へた堅舟であつたのを寛文四年以後は熊野諸手船に倣つた丹塗の船にし延宝五年の鯨網の創製とともに銛と網とを併用する船隊の組織なども大仕掛なものとなつた。突き船、網船、引船と大別する捕鯨船のうち突き船は九艘を一隊とし、各船は十五人乗八挺櫓を具へてゐた。船毎に羽指(ハダン)と称する総官が一人、 長柄のある銛を擁して船首に立つた。網船は一隊に八艘、各十二三人乗、船毎に網十八緞を積み込み、鯨を追ひ廻して遠巻に網を置いて「眼おとし」をする。この網は太さ井戸綱程で、壱反分は最大のもの参拾五尋のその節数は四十五尋から成ってゐた(太地覚右衛門氏伝襲の鯨網仕立方といふものによって明細は知ることが出来る)。引船は各船皆十一人乗。船は何れも鯨油で溶いたベンガラを用ゐた丹塗に輪廓や模様の稲妻形の区劃など黒く線を引いたなかに松の葉の模様や花形などの五彩あざやかなものを船腹に描き出してゐた。悉く旗を立てて軍船のやうな趣がある。蕪村が句の、

既に得し鯨は逃げて月ひとつ

は前記のやうな船やそれが各部署についてゐるところとを想像した上で味ふべきであらう。同じく蕪村の

山颪一二の銛ののぼりかな

は捕獲に成功してその殊勲を現はす船が一の銛二の銛の名誉を示す幟を立てて意気揚々と凱旋するところである。その他蕪村には鯨に関する句が多い。特に熊野浦と指してゐるのは

十六夜や鯨来そめし熊野浦

だけであるがこれは上り鯨の事であり、

菜の花や鯨もよらず海暮れぬ

は熊野の下り鯨を指してゐるかと思ふ。その他、蕪村の鯨の句は、その時代を考へてみて熊野の捕鯨がまだ全盛の時機だから 皆熊野を想像したものと思つてよからう。蛇性の婬で熊野小説を書いてゐる秋成に捕鯨の小説を書かせたかつた。彼には適当な題材だからである。

 前述の捕鯨の船隊はみな陸の山上から遠眼鏡で遠望してゐる老漁によつて信号で指揮されてゐたものである。近きは貝、貝の及ばぬところは三品の采配、采配の及ばぬ場合は三品の旗を用ゐ、旗でもおぼつかない時には烽火を挙げた。鯨の大洋を通遊するものは一日の内夥いが、これを漁するには海岸四里以内のものでなければ困難としたので、海に近い山上の望楼で終日見張つてゐて、螺貝や、烽火で鯨の寄つたのを報じたものである。この合図に接すると一村はさながら非常召集の命を受けたも同然で大正初期でさへ阿田和あたりは為めに小学校も業を休み児童迄が浜に集るといふ程であつたと同村で代用教員をしてゐた事のある友人の話であつた。

 紀州出身の将軍吉宗が熊野の捕鯨船に範をとつたものを江戸に用意させて水難救護の事に従はせ世に好評のあつたのは史上に顕著である。慶応二年長州征伐の際にも熊野捕鯨船は徴発されて神戸まで航行した事もあつたといふ。

いさなとる海辺を見ればさにぬりの神代の御舟今もうかべり
                        長沢伴雄

や、筆者が師与謝野寛大人熊野詠草のなかに見えた

丹ぬり舟いかり帆の綱ふかの鰭にほふ日向に浜木綿の咲く

にいふ丹塗舟や神代の御舟の捕鯨船は、筆者が少年時代にはまだ新宮の王子浜や三輪崎の浜などでよく見かけたものであつた。図案や彩色の一例は挿画によつて示すつもりであるが、その模様のゲテものらしく素樸で端的な表現を持つた菊や椿の花や重ね松葉などの豪壮に美しいのが色極せながら、鮮やかに見られたものであった。旧新宮藩の三輪崎鯨方に属したものであつたらう。その色彩や図案の古雅な印象は今も眼底にあつてなつかしい。たゞの装飾といふよりも油を雑へた塗料が水をはじいて滑走をいやが上に軽快にした工夫と聞く。尚これらの模様や番号は各船の部署を明かにした目じるしであつたらう。

昔日の船は多く、既に朽ちてしまつたらうし、新しく造営されることもあるまいから、現時ではもうあの目もあやな細い船を旅客はもとより地元の少年等も見かける事はあるまい。明治三十年代の 中ごろはじめて熊野へ遊ばれたかと記憶してゐる故先生は多分あれを三輪崎湾外の孔島か鈴島あたりで注目されたのではあるまいか、あの辺には浜木綿が人影を没するほどの丈によく茂つてゐたものだ。いかり帆の綱などもあの辺を思はせる景物である。三熊野の浦の浜木綿に関しては別に鄙稿があるからここには書かぬ。丹塗船や保護植物になりながらも年年減少する浜木綿や熊野の風物も大方はなくなつた。熊野の遊覧は一日も早かれと誘ふ所以である。

 鯨は羽指等が我がちに打ち込だ銛の傷によつて出血して疲労が激しくなつた頃合を見はからつて、利刀を携へて海中に身を投じて其背に穴を穿ち大綱を通し左右の船に繋ぎ数艘を連ねて海岸を指して曳き帰るのである。背に穴を穿ち大綱を通すことを「手形を取る」と云ふ、この仕事は、もし時期の見計ひを誤つて早過ぎれば鯨の勢が猛くて近付くものに死闘を挑むから船も人も遭難を生ずる惧があるし、遅い時は鯨は既に死して海底に没し去つて曳く事が出来なくなるから、死生の界を見極めて手形を取るのを老漁の作業とし、この業は世襲になつてゐるといふ至難なものである。思ふに網は手形を取りそこねた鯨の逸走を防ぐ場合などに有効であつたのではあるまいか。初代だか二代だかの覚右衛門が夢に岬参りをするのを予め知つてその途を擁した大きな背美の為に曳船が全部却つて鯨に曳かれたまま流れ去つたといふ伝へもある。

しかし熊野捕鯨史上の最大の遭難はやはり明治十一年十二月のものであらう。午後五時頃に発見した子持の背美で、到底日中に捕獲は不可能だから見逃さうといふ意見もあつたが、みすみす万金を逸したくないといふので遂に捕獲にかかつたのが翌日の朝に及ぶも獲る事が出来ないで力尽きたところ常に軽快を重んじて僅に一日分の用意しか積まない米と水との不足を来たしたのでこれを求めて一艘が帰ってゐる間に折からの西風に流されて船の行方は知れなくなつてしまつて、諸方の高峯に人を派して行方を捜したが知れない。 遠州沖の方まで流されてしまつたものなどもあって、寒気や饑餓で死し或は激浪に奪はれた行方不明者が多く、二百人のうち生還者は十三人であつたといふ事件は比較的新しいから文献の詳しいものもあるが今は説かない。

 また捕鯨に関する詩文の見るべきものも多数あるが、他は略するとして、新宮藩の儒臣で藩校育英館の督学であった湯川麑洞の作になる捕鯨行を採録しよう。新宮の人で太地に近い地に居住した事もあつて、実景をよく見てゐるから特別に面白いが秘稿は多く世に知られて居ないと思ふからである——

   捕鯨行
熊野之灣九十九  東西沿海路半千
瘦士磽角耕不足  舟檝爲家海爲田
泰地古座三輪崎  三邑各發捕鯨船
侯台拂雲倚崔嵬  螺声吼風颺號烟
怒濤如馬船如箭  冒險奮進競着鞭
分隊整伍圍漸急  鯨身已被巨網纏
半空忽閃逆鬚槍  建幟表功誰是先
一人口劍躍投海  直跨鯨背沒深淵
刺刀其腹縛以索  雙舟夾之衆力牽
人皆裸裎汗交汗  一船八櫓肩摩肩
日光慘擔射波面  彩船相映更燦然
侯吏來報鯨已至  螺声再動暮汀辺
汀辺水淺挽不上  宰夫蟻聚磨力鋌
割皮屠肉肉成林  骨節如臼車可專
舟運陸輸初上市  叫売一声人流涎
可羮可炙又可膾  一臠壓倒万鱗鮮
鯨魚一頭潤七邑  此語俗間謾相傳
不知大利存大害  可惜民命爲利捐
南海渺范無際涯  不比薄田限陌阡
雖然海利非可必  一舉先費幾百銭
万銭費盡網未結  徒睨滄波奮空拳
主人何知漁人苦  安坐只貪海利權
君不見人海世波亦險惡  有時鯨鯢起其前
民間願無勞役事  蓄將全力戴堯天

 平易な文字だからその必要もあるまいが老婆心から書き直して置く、

熊野ノ灣九十九 東西沿海路半千。
瘦士磽角耕スルニ足ラズ 舟檝ハ家ヲ爲シ海ハ田ヲ爲ス。
泰地古座三輪崎 三邑各捕鯨船ヲ發ス。
侯台雲ヲ拂ツテ崔嵬ニ倚ル 螺声風ニ吼エテ號烟ヲ颺グ。
怒濤馬ノ如ク船箭ノ如シ 險ヲ冒シテ奮ヒ進ミ競ツテ鞭ヲ着ク。
隊ヲ分チ缶ヲ整へテ圍漸ク急ナリ 鯨身已ニ巨網ヲ纏ハル。
半空忽チ閃キ鬚槍逆ツ 幟ヲ建テ功ヲ表ス誰カ是レ先。
一人劍ヲ口ニシテ躍ツテ海ニ投ズ 直ニ鯨背ニ跨ツテ深淵ニ沒ス。
刀ヲ其腹ニ刺シ縛スルニ索ヲ以テシ 雙舟之ヲ夾ミ衆力メテ牽ク。
人皆裸裎汗交モ汗シ 一船八櫓肩ハ肩ニ摩ス。
日光慘擔波面ヲ射 彩船相映ジテ更ニ燦然タリ。
侯吏來リ鯨已至ルト報ズ 螺声再ビ暮汀ノ辺ヲ動カス。
江辺水淺ク挽ケドモ上ラズ 宰夫蟻聚シテ刀鋌ヲ磨ク。
皮ヲ割キ肉ヲ屠リ肉林ヲ成ス 骨節臼ノ如ク車專ラス可シ。
舟運ビ陸輸シテ初メテ市ニ上ル 叫ビ売ル一声人流涎 ス。
羮ニス可ク炙ス可ク又膾トス可シ 一臠万鱗ノ鮮ヲ壓倒ス。
鯨魚一頭ハ七邑ヲ潤ス 此語俗間謾ニ相傳フ。
大利ニ大害ノ存スルヲ知ラズ 惜ム可キノ民命利ノ爲ニ捐ツ。
南海渺范際涯無シ 比セズ薄田ノ陌阡ヲ限ルニ。
然リト雖海利ハ必トス可キニ非ズ 一舉先ヅ幾百銭ヲ費ス。
万銭費シ盡シテ網未ダ結バズ 徒ラニ滄波ヲ滄波ンデ空拳ヲ奮フ。
主人何ゾ漁人ノ苦ヲ知ラン 安坐シテ只海利ノ権ヲ貪ル。
君見ズヤ人海世波赤險惡 時有リテ鯨鯢其前ニ起ツ。
民間願ハクバ勞役ノ事無カレ 蓄フルニ全力ヲモツテシテ堯天ヲ載カン。

 熊野捕鯨の中心地たる太地は勝浦湾外の一小港である。勝浦港の附近は潮流の関係か、さまざまな魚類の集るところで、曾祖母の話として伝はるところによると賞て勝浦湾内で身の赤い魚が漁れたことがあつて、人肉か何かのやうで不気味であつたから珍らしがつたが何人も食用にしなかつたといふのは、多分北方から鮭のやうなものでも迷つて来たのであつたらう。また大正の初年ごろにこの附近で人魚を捕獲したものがあつた。別に鄙稿がある。奇聞だが、改めて書く事もないから就いて見られたい。

捕鯨の事も地の利に因ることは無論であるが、ただそればかりではなくこの地の人が進取的で活動を愛する気風に富むためでもあらう。太地町出身者にもアメリカ移民が多いが、大たいとして刻苦労働に堪へて郷里への送金も乏しくないので 熊野地方としては稀に見る新興の気に満ちた小邑である。大体として山間の熊野よりは海岸の熊野の方が勃興しつつあるうちでもこの町などは新興熊野として注目すべき地であらう。

この町は新興の気と対照して面白い事に、前述の朝比奈三郎の事をはじめ伝説に富んだところで平維盛が入水した山成島も近く、入水と見せかけて再び陸地に這ひ上つたのもこの地の身濯浦であるといふ。彼はこの地に上陸してこの地の山奥の色川村に潜行してかくれ住んでゐたといふ事で色川には維盛の遺品を蔵した家もある。維盛や新宮十郎蔵人行家、さては田辺闘雞神の別当湛快及びその子と伝ふる弁慶などを主要人物として熊野と源平時代にも一夕の話柄はあるが説き及ぼさぬ。

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底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店

初出:1936年(昭和11年)4月4日、『熊野路』(新風土記叢書2)として小山書店より刊行

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2015.10.6 UP



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