熊野路
佐藤春夫
浦は…………
(熊野の風景美に就て)
浦はそとの浜吹上の浜長浜打での浜諸寄の浜千里の浜こそひろう思ひやらるれ——枕の草紙
まだ木挽長歌の小解の途中ではあるが、海浜の話になつてふと清少納言が枕の草紙に浦はと言ひ出して、浜や浦や滝や川などを挙げてゐるのが思ひ出されたから今才媛が顰に倣つて熊野のうちから「浜は」をやつてみるとしよう。
浜は 七里御浜 白菊の浜、しららの浜と聞くさへ眼すずし くおぼゆるに、
浦は 玉の浦 離れ小島は名さへあはれにさびしさいやまさる折から、
磯は 鬼が城と聞くにこころ落居ず、
滝は こればかりは枕の草紙の一部をそのまま「那智の滝はくま野にありと
聞くがあはれなるなり」を引用して置かう。
白菊の浜は新宮市外の御手洗(ミタラヒ)からやや三輪崎に寄つたあたり今は汽車の線路に沿うてゐる。旧街道の猿茶屋と呼ばれた茶屋のあつた峠の下のあたりである。やや大形の丸く白色の石のほぼ粒の揃つたものばかり選んだやうに集つてゐる浜である。波のやや荒いところだから自然と石のつぶが揃うたのであらう。浪の引く時に石の周囲に泡が立つてなるほど白菊の花を見るやうな趣はある。幾分荒つぼくて歌枕風の景色ではないが特色のある風変りな浜である。
しららの浜は催馬楽に歌はれてゐるからその名は夙に世に知られて地方的なものではなくなつてゐる。西牟婁郡田辺町の附近の白浜であるといふ事になつてゐるが、自分はもしや東牟婁郡下里町の粉白(コノシロ)の浜ではあるまいかといふ一家の見解を持つてゐる。もし愚見が通用するものとすればしららの浜は次に述べようとする玉の浦と同じ場所の別名、或は玉の浦の一部分といふわけである。
玉の浦ならつい一両年前、県当局や我等の反対にも不拘、鉄道省の暴挙によつて申しわけにその名残だけはあるが、秀麗温雅なうちに哀愁を帯びたわが古典文学の趣をさながらの風致はむざんに破壊されてしまつた。象潟の名とその歴史とが幾多のあはれ知る越路の旅人が旅愁を深めるに劣らず、玉の浦はこの後永久に心ある熊野路の旅客をして俗吏の暴挙を痛憤せしめる記念の地となるであらう。この地の海岸は円形黒質で滑沢のある玉石と称する「球状の含燐結核を含むもの」を産した。「大きさは梅の実大を普通とするが稀には人頭大に達する者もあつて色分成立は全く母岩(泥板岩)と等しきも只其硬度優れる球塊に外ならざるもの」(山崎直方佐藤伝蔵共著「大日本地誌」中「玉の浦の玉石」の条に憑る)。
この奇事がある上に、このあたりにつづく砂の色が特別に白く到底白浜などの比ではない。米の粉のやうにこまやかにきららかな光沢を帯びてゐる浜であるのに、湾外の程近い海上にささやかな小嶋が白い浪に包まれて横はつてゐる。これが離れ小嶋である。この三者が一体になつて一つの歌枕をなしてゐた。しららの浜をこの地とするのは筆者独自の意見だからこれは暫く措くとしても、このあたり玉の浦は玉の浦として既に世にかくれもない歌枕で、瀬戸内の同名の地と久しくその真偽を争うたがこの地に離れ小嶋の具はつてゐるだけに近時識者から更に認められつつあつたものである。
それを鉄道が風景の真只中を横切つて突堤を築きその上に鉄路を走らせる工事を遂行したので、玉の浦を破壊したばかりか離れ小嶋との美的聯絡を切断し、而も多くの旅客をして車窓から名勝を明かに見物させるに好都合であらうなどと当局はうそぶきほざいてゐるのだから憤ろしいよりも寧ろあきれ返つた沙汰である。何がよく見えるかは知らないが、風致はすつかり失はれてしまつた。今は無き名勝はただ幾多の古歌をそのかたみに持つばかりであるから、今は纔(わずか)にこれによつてありし日を偲ぶより外にすべもない。
荒磯よもまして思へや玉の浦のはなれ小嶋の夢にし見ゆる
万葉集七卷我が恋ふる妹はあはさず玉の浦にころもかたしき独りかもねむ
同九巻汐風やとほよる千鳥玉の浦のはなれ小嶋に友さそふなり
権僧正公朝玉の浦名に立つものは秋の夜の月にみがける光なりけり
為家卿霞にもはなれ小嶋にあらはれてまたうつもるる沖つ遠山
正徹小夜ふけて月かげ寒み玉の浦のはなれ小嶋に千鳥なくなり
平忠度船出して今こそ見つれ玉の浦はなれ小嶋の秋の夜の月
忠家ぬれて干す沖の鴎の毛衣にまたうちかへる玉の浦浪
伝西行法師ながめやる海のはてなる山ぞなきうかべる雲のはなれ小嶋に
柏玉集 後柏原院古里をはなれ小嶋による浪よ立ちかへるべきしるべともなれ
千首 羇中旅 耕雲
まだ少くはないが居ながらにして名所を知つたかと思へるのやあまり名前の一般でない作者のは引かなかつた。最後の一首は筆者の故郷がこの地に近いので出京の度毎に口吟して特に記憶に残つたわけである。はなれ小嶋を主題にしたものとしては 柏玉集の「浮べる雲のはなれ小嶋」が最も実景に近い。湾外の程近い水平線上に白波につつまれて細長く浮いてゐる小嶋だから。それにしても、あまり秀歌のないのがもの足りない。
玉の浦のおきつ白玉ひろへどもまたぞ置きつる見る人を無み
は前述の如くこの浦からは白玉ではなく色は黒いが質の硬い形は人工にまがふばかりの球形の石が出る事実から見て閑却出来ないものである。この海中から白玉は言葉のあやとしても、玉石が出る事実と、今現に地名を粉白(コノシロ)と呼ばれてゐる程、粉末の如く特別に純白で光沢のなめらかにきららなこの浦を、自分は催馬楽にいふ紀伊州の白良の浜に擬するものである。試みに催馬楽を読んで見よう。
紀伊州(きのくに)
紀伊州の白良が浜に
真白良の浜に
来てゐる鴎 はれ
其の玉持て来風しも吹いたれば
余波(なごり)しも立てれば
水底霧りて はれ
其の玉見えず。
「風しも吹いたれば余波しも立てれば水底霧りて」といふのも直接外海ではなく湾内奥深い実情にもかなふところではあり、自分は催馬楽の真白良の浜を東牟婁郡高芝町字粉白の浜と玉の浦とを合せたものと考へて、「おきつ白玉拾へどもまたぞ置きつる見る人をなみ」と催馬楽を踏まへた歌の上の五字に玉の浦を読み込んでゐるのを見て、古昔は玉の浦と自良の浜と二つの名を持つた同一の地であつたかを思ふ。尠くもさう思つてゐた時代もあつた事の証としたい。
実状に鑑みて在来の定説をも顧みず敢て私説を公表する所以である。——田辺町の白浜が白良の浜であるといふ宣伝のすでに一般化されたのは認め且つ古来この浦を白良が浜と見做して詠じた古歌も多く、続風土記でも認めてはゐるしまたその確証を田辺町の人々が握つてゐることとは信ずるが。
玉の浦の玉石は追追と少くなりつつはあつても現時でも時々海中から出て来るものである。附近の茶屋や土地の土産物屋の店頭などで旅客もよく見かけるであらう。
熊野の海の海岸一帯の荒荒しい風景のなかのところどころに、 玉の浦や、狭野の渡附近などのやうな、たをや女ぶりの典雅優艶、小じんまりとまとまつた風景に出会ふのはその思ひがけない変化と対照との上から特に珍重なために歌枕に選ばれたものであらう。外に那智山下勝浦湾内の湯川などもこの類の風景である。和歌の浦にしても遠江の伊奈佐細江にしても歌枕の地にはみな一脈共通のなごやかな美がある。つまり日本の古典文学の典型的な美が風景に具現されたものであらう。
日本文学の精神——やがては国民性である——を手つ取り早く知る妙手段は歌枕を一見するに如くはあるまい。国民が美的情操の伝統を平気で破壊しつづけて何が地方の開発であらうか。目前一時の利の(それさへ政党の勢力獲得上の)ために、国家百年の計を誤るものではないかと我等風情でさへ寒心の至りである。尤もこんな理を説いて聞かせて判る程なら、最初から我利我利政治屋や俗吏ではない道理だから、彼が盲人でない限りは美景に心を打たれてはじめからこんな暴挙に及ぶわけもなかつたらう。
何しろ鉄道当局と来たらこの地方にまだ鉄道のなかつた四五年前ころには、東海道線の車中に掲げられた日本中部地図のうちに天下の霊山として一時は上下の信仰の中心地であり、現に日本一の称のある滝のある那智山の記入が鉄道に関係がなかつたからといふ理由からか、平然と無視してゐる驚くべき非常識を発揮したお役所であった。
それが名所旧跡などに気を配つてゐては地方の開発(開発の意味を果して知つてゐるのか?)は不可能だ風景美などは産業の発達上何の意義があるか、工事を急げ急げとばかりえも磐代の結ぶ松の跡(史蹟であつて無二の文学名所!)をレエルの下敷にしたり玉の浦を真二つにたち割つたり、懐古的感情などは無視した革新的な英断ぶりは我等とは傾向は違ふが確にこれも一態度と見上げつつも(それにしても現在の熊野に何の産業があるのかと怪しんでゐたら)鉄道の完成に近づくに従つて、今度は訝しやそろそろと、破壊の手から偶然残つてゐた名勝旧蹟を、そればかりでは足りないかいかがはしい新名所までも売り物の案内書などをつくつて旅客を誘引しようと策するのだから、矛盾も亦夥しいものである。
熊野の鉄道布設事業によって近頃これ等の実情の委曲を知悉して以来、我等は日本地図をひろげて鉄道線路標記を見る毎に、既に風景と史蹟との破壊された地方また地方の悪政客と奸悪な俗吏の自 己の栄達を求めて汲汲たる輩とが相結んで土地開発国家事業の美名の下に、純樸に平和な地方人の民心を傷けた戦慄すべき事実の標記として目を覆ひたくなるのを禁じ得ない。
玉の浦などの温和な飽くまで歌枕風な景色は熊野では珍らしい。それ故例外として尊重しなければならないのに対して三重県南牟婁郡木の本町の東北端海岸の鬼ケ城の巨巌自らに屋字の如く波蝕洞窟を成し波濤澎湃と巌礁を撃つ所、眼界は茫茫たる太平洋に直面する雄大奇絶な景は東牟婁の潮岬の眺望等とともに豪宕な熊野海岸風景の典型であらう。
雄大といへば那智の滝を説く事を忘れてはなるまい。那智山上の絶壁に直下四十四丈余(華厳は三十三丈)壮観無比宇内第一の称のあるのも空しくない。那智四十八滝のうちの一の滝と称するものである。大瀑布でありながら一直線にかかつてすんなりと水煙を籠めた所は天女の織る機を切つて風になびかせたとでも言はうか、いや、やはり橘南谿が美人の羅衣を纏ひて立てるが如しと評した適切なのには及ばない。
壮観は或は華厳に一等を輸するかも知れないが美麗は恐らく天下の如何なる滝も那智の敵ではあるまい。大雲取、小雲取の嶮山を奥にひかへてゐるから水量も豊かに何時も涸れる事がないと請はれてゐたものであるが、近年山林の濫伐に禍されて水量は昔日の比でないと云はれる。古来名歌に乏しくないが諸平の三首が断然頭角を現はしてゐる。——
壁たてるいはほとほりて天地にとどろきわたる滝の音かな
高機をいはほにたてて天つ日の影さへ織れる唐にしきかな
と実景を詠じた上に更にその水源を空想して
あしたづの翅のうへに玉しきて神やますらむ滝のみなかみ
と想像を馳せたものも実景を見た人には実感のある詩的空想として承認されるものに違ひない。最後にわが椿山翁が戯詠を一つ思ひ出した。
竜門の鯉はものかはいすくはし鯨ものぼる那智の大滝
といふのである。もとより滝を詠じたのではなく大滝に事よせて往年の那智山上の僧徒が放縦を諷したものと察せられる。多くの名歌を無視して敢てこの狂歌をここに上げるのも、木挽長歌の小解を中絶しその重要な話題を語り残してゐる気がかりの一端がここに現れ出たものである。
底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店
初出:1936年(昭和11年)4月4日、『熊野路』(新風土記叢書2)として小山書店より刊行
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2015.9.27 UP