み熊野ねっと分館
み熊野ねっと

 著作権の消滅した熊野関連の作品を公開しています。

 ※本ページは広告による収益を得ています。

熊野路

佐藤春夫


【網曳き勇魚(いさな)とり】

 を大敷といふ網で獲る事は前述したが、これはこの木挽長歌の作られたころにはなかつた方法だからここでいふ網曳きのうちではなく寧ろ前の魚(な)つりであらうが、この頃の網曳きといへば先づ秋刀魚(熊野では俗にサエラ又サイレといひ和歌山人はサヨリといふ)であらう。以前——といふのは木挽長歌に歌はれた頃は三艘の船を一組としてゐた。これ等の船は後に述べる鯨船も同じであるが、細形の軽快なもので側面にはベニガラやとの粉群青などで花模様などを描き彩色してあつたものであるが今はもう見られない。案ずるにサイレ船は捕鯨期に先立つて捕鯨船を検したり、兼ねて船の操縦を練習したりする目的を以て捕鯨家が副業としたものではなかったらうか。

これ等の彩色した一組の船の三艘のうち、二艘は幾百丈もある大きな網の両端を引きまはして網を張ると一艘は予めどつさり用意の礫(こいし)を海中へつぶてに打ちつづけて魚を網のなかへ追ひ込んだものであるといふ。今はこの漁法も全く変つてしまつたといふ。他の地方の漁夫が多く集るのや、石油発動機船の発達などの結果、簡単に効果の挙がる方法に従って進歩して、同時に地方色を失つたのであらうが、どういふ風に変つたのだか明かにしない。

紀州の秋刀魚は東京のものと似てゐるが幾分違ふところがある。その漁期も東京のよりは一二ケ月も遅れてゐるし、形も幾分細く東京のものの様に悪くあぶら切らない、それでゐてさつばりしたうちに特有の滋味のあるものである。荒海を遠く泳いで来る間に変質したものか、それとも全然別種のものであらうか、県の水産課でも研究してゐるといふ事はいつぞや地方の新聞で見たが、その結果がどうであつたかはつひ見ないでしまつた。

先日——十一月下旬遠州の浜松に旅行して友人の宅で秋刀魚の御馳走になったが、それの味が、郷里の方のものと同じであつた。遠州の漁夫が近年よく紀州へ荒しにくると紀州の漁夫がこぼしてゐた事があるから、あの秋刀魚は必ず紀州の海のものであつたに違ひない。さうとはつきり断言していい程東京方面のものと熊野のものとは相違してゐる。

 海老も以前は磯に網を置いて捕獲したものであつた。今日も無論その方法によるのではあらうが、近年では捕獲したものを磯に貯蔵して飼つて置いて必要に応じてそれを上げて来るだけである。不漁の時の値上りを見越して用意して置くのである。現在ではその竹籠さへ、亜鉛の針金でつくつた箱であるといふ。かう聞くと何やら海老の味も減じたやうな気がしていけない。

海老は普通に伊勢海老と呼ばれてゐるが、あれは決して伊勢の海に産するのではなく、往昔、熊野で捕つた海老を伊勢の大神宮に奉仕する御師が生きたままで運べるのが珍らしいといふ思ひつきで京都へよくお土産に持つて行つたのが吉例になり、それが海を見たこともない都人に珍重されるあまり、伊勢人の土産ものといふので伊勢海老、伊勢海老と呼ばれるに至つただけのもので産地はやはり熊野であると熊野では言つてゐる。伊勢では伊勢の産を主張しさうである。誰か海老の産地を知らんやである。これはどうしたつて角ふり分けよ伊勢熊野と海老に聞いてみるより外はあるまい。

 磯には味噌汁の実として熊野人が喜ぶウツボといふ奇態な魚がある。虎に似た斑のある鋭い歯と機敏な活動性とを具へた喧嘩好きの魚で時には人間にさへ噛みつくといふ奴であるが網で取つたり釣つたりカナツキで突いて獲つたりする。同じく磯に棲んでウツボの好敵手と呼ばれてゐる蛸入道は蛸壺で捕へられたりヒシで突かれたりする。ヒシはカナツキと同じものの別称で長い柄のある三叉である。これを用ゐる者は一種の眼鏡を工夫して海底をのぞきながら突く。

筆者は十二三歳のころ磯に遊んで岩凹の間に半透明な細長い海草のやうなものが流れてゐるのを見つけてそれを拾つて見ようと手を差し出すと、突然奇妙な感覚に襲はれて狼狙し、これを振り捨てようとあせつた。相手が何者とも正体が知れないうちにこんなことになつたので驚き恐れたのである。僕のうろたへてゐるのを見つけた一友人で漁村に成長した者が笑ひながら近づいて「頭をひつくりかへせばいい」と教へてくれたがどうしていいのだかわからずにゐると彼はもどかしげに近づいて自分で取計らつてくれた。

外套の頭市のやうになつてみる頭部をくるりとひつくりかへしてしまつたら怪物の力はみるみる衰へた。この怪物は外ならぬ蛸のうちの柳蛸といふ小さな種類であつた。店頭でばかり見て蛸といふものの生きたものを見てゐなかつた僕が捕へようとした手を蛸に吸ひつかれて気味悪がつたのであった。しかし、そのおかげでこの日磯で変つた獲物と話柄とを残した筆頭は僕であった。「柳蛸なんて食つたつてしようがない」と海村育ちの友達は一笑に附してゐたけれど、有毒といふわけでもないと確めたので、僕はその日帰宅して夕餉にはその怪物を食つた。不味くはなかつたやうにおぼえてゐる。蛸やウツボなどはほんの一例で磯には幾多特有の小魚が多いが後段に改めて説く機会が来る。

 海鷹(みさご)鮓と呼ばれるものが時には見つかると云はれてゐるのは熊野のこんな磯の岩間である。海鷹鮓の事はたしか弓張月に琉球の磯の事として出てゐたやうにおぼえてゐるが熊野でも実物は見ないが話でならよく聞いてゐる。その鮓といふのは多分満潮の時岩凹のなかにゐたのが引潮にのこされる乾上つた後にその塩魚がひとりでに偶然に醗酵したものか何かで海鷹のつくつた鮓でもあるまいが、ここでいふ鮓はなれ鮓と称して熊野地方には今も行はれてゐる。魚と飯とに醗酵菌を寄生させたもの。チーズに似た美味である。新鮮な魚を開いて塩蔵したもののなかに飯をつめて、これを小判形の桶の中に並べて石で押して水気を去り、桶のなかに前年発生したままで残つてゐた菌(多分チーズの菌などと同種類)が飯や魚に寄生するのを待つて食ふ。

鮓の出来るまで三週間ぐらゐかかるものであるが、なかなかいいものである。執筆に夜を更して偶この鮓のことを書いてゐると季節柄食指の甚だ動くのを覚えて来た。俳諧にいふ鮓の石鮓の桶といふものはみなこの鮓のことである。ひとり熊野にあるだけでなく各地に類似のものもあり以前は全国にあつたものであらうが、熊野には今も残ってゐる所請なれ鮓である。俳諧では夏の季のものらしいが、事実として我等は熊野でも東京でも寒中に漬けて居る。但し海鷹はいつ潰けるやら知らない。

 山には樹の虚洞(うろ)に醸された猿酒といふものがあると聞くが、海鷹鮓を肴にして猿酒を一献参つたらと考へて見たら上戸ならぬ我等も悪くなかりさうな気がして来た。尤も仙人でもないのに無闇とそんな珍味をせしめると腹痛でも催さぬとも限るまい。とかく口は禍の門。分を知つて慎む可きであらうか。

 海鷹鮓は咄に聞くだけであるが海鷹なら熊野の磯にめづらしくはない。先年筆者が南部(みなべ)の香嶋の磯で見た海鷹の巣はまるで王冠のやうな形に海中の高い岩の頂に営まれてゐた。みさごは荒磯に居る即ち人を恐るるによりてなりといふ方丈記の文の意味を目前(まのあたり)に知つた事であつた。

 磯で特殊な網が行はれる外に浜では地引網がよく見られる。七里御浜の至るところ、例へば新宮の王子浜、木の本の浜、阿田和の浜などで見かける。春の海がおだやかに長閑な日などひる前から引廻して置いたらしいのを午後半日がかりで引き上げる時には浜に近いあたりの老若男女はもとより、通りがかりの見物まで散歩の杖を砂原に投げすてて手を貸し、夕雲の下に引き上げたのを見るとおもちやのやうな蛸、烏賊、蟹から、鯛、平目、さては河豚、鰯に太刀魚など鱗族の四民平等、一切同災の観がある。

鯛の多くかかる日は空にうろこ雲が現れてゐるとか、七里御浜に太刀魚の多くかかつた日は天気が雨になる模様があるなど、岸に近づいてゐる魚族と天候と密接な関係があるのも当然と言へば当然ではあるが海近く住んでみてはじめて知る面白い事の一つであらう。いつぞや絵をよくする友人を伴うて熊野に遊んだ時彼が即興に漁婦を画いて賛をせよといふので 臆面もなく悪筆を揮つて、

海彦をいろせに持ちてタなタな落葉のごとく拾ふ鱗族(うろくづ)

といふ似而非歌を題したのを思ひ出したから筆の序に記して置く。

 熊野の海は琉球の沖とともに世界でも貝類の産地として知られたところであるとかで、浜辺にはさまざまな貝がらが多く得られる。大海で小さな生を営んでゐたものの残骸だけに貝殻といふものを面白いものに思ふのは自分の趣味ばかりでもないらしい。モラエスの遺品のなかに、少年時代からその足跡を印した海浜で拾ひ集めたといふ各地の大小雑多な貝殻の蒐集を見て海軍士官出身の心理的詩人のものにふさはしいいい蒐集品だと妬ましく思つた事であつた。

 十月十六日巴嶽にのぼるとて多宇具良といふ谷の雪の上に
 かり庵つくらすとて大木をきらせけるにたをるる音山にどよみぬ

みやま木のもときりたつと斧とれば空もとどろに山風吹くなり

                        ——柿園詠草

back next

 

底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店

初出:1936年(昭和11年)4月4日、『熊野路』(新風土記叢書2)として小山書店より刊行

(入力 てつ@み熊野ねっと

長うた狂歌「木挽長歌」:熊野の歌

勝浦港の生マグロ:熊野の名産品

伊勢海老:熊野の名産品

うつぼ:熊野の名産品

佐藤春夫「鮨のはなし」

佐藤春夫「鮨の作り方」

七里御浜:熊野の観光名所

2015.9.24 UP



ページのトップへ戻る