熊野路
佐藤春夫
【浦々は魚(な)つり】
と句は一転して以下海浜の事に及んでゐる。山を出ると直ぐ海に接してゐる熊野の地勢を知る者にとつては、このなだらかに急劇な話題の開展は地勢の自然の変化をさながらに模したものとうなづけるであらう。翁の筆力の侮るべからざるを覚える所以である。
熊野の海村の魚釣は大きなものは鮪つりである。これは大洋へ遭ぎ出して何百尺といふ麻苧の縄に釣針をつけそれに烏賊を餌として壱斗樽のやうな樽を浮標として大海へ投げ込み数時間の後引き上げて、三十貫、七八十貫といふ巨大なのを釣り上げる。堅魚(かつを)は数人の漁夫が舟に乗つて各各釣竿を持つて釣る。串本節の俚謡にも、
儂のしよらさん(情人の意)岬の沖で波にゆられて堅魚釣る
と歌つてゐる。餌は鰯が普通である。小さな鰯を近海で網で引いたのを生けたままで籠に飼つて置いたのを毎日漁船の出る時にすくひ取り、船の一部に潮を汲み入れて生かしたまゝ黒潮の流れまで出て釣るものである。巧拙のあるものと見えて三輪崎(古のみわがさき現に土称ミヤザキ)の浜で子供が板片を堅魚程の大きさにしたものを釣竿の糸の端につけて稽古してゐるのを見かけた事があるが、釣り上げると直ぐ左の脇に置いて抱へるのを面白いと思つた。ただの遊戯ではなく将来の職業を練習してゐる真剣なものであつた。
小がつを(東京でいふ惣太鰹)も鰯を好んで追うもので海面に群をなす鰯は小がつをに四方から追ひ迫られて遁げ場を失うて我勝ちに水面に逃れようとする結果互に縒りもつれ合つて堆く海面に盛り上つて棒のやうに立つ事があるものである。こんな時には小がつをも夢中になるから漁夫はそれを見すまして牛角で作つた魚型にひつかける。魚型(うをがた)と云つても決して魚の形をしてゐるものではなく牛角の棒の尖に鈎(はり)の五つ六つついたもので、井戸釣瓶を拾ふいかりを極く小さくしたやうなものである。
鰯が棒立ちになったところを見つけて魚型を沈めると五十や六十の小がつをは見るまに引つかかつて来る。こんな時には素人の少年の手でもとれるものである。熊野の海ではあらゆる種類の魚が得られるけれども就中堅魚はその品質といひ、漁獲高と言ひ、熊野の漁場の横綱であらう。尤も後に縷説する鯨に至つては別格の王者であるから論外である。
あすよりは堅魚つるべく牟弁婁の海の南の風に松の花散る
熊代繁里
熊野灘は堅魚の漁場としては海内無比の処であると見えて時節が到来すると、土地の漁夫や隣国の土佐や伊勢は申すまでもなく遠州さては房州あたりからさへ発動機船を仕立てて那智山下を目ざして遠征し、勝浦の漁港は甚だ賑ふ。
堅魚といへば、天下にその名を知られてみるわが郷の堅魚節が近来土佐のものよりも品質が劣るやうに思へてならないところへ二三の友人からも同じ意見を聞かされたので帰省の節にこれを郷人に語つて一考を促したところが、彼等は異口同音にこれをきつばりと否定して、その材料は土佐と同一物、といふのは土佐節の多くも紀州の海から持つて行つた鰹であるし、その上、その製造法まで全然同一であるどころか時に相場によつては土佐から紀州のものを買ひ入れに来る程であるから、土佐と紀州とが仮りに同じ物であることがあらうとも、土佐の方が優れてゐよう道理はないと主張するのであつた。
自分がそれでもと事実を楯に抗論すると、彼等は不承不承にそれでも最後には、果してそんな事実があらうか、万一さういふ事があるとしたならばわが郷の業者が資力の欠乏のために品を売り急いで十分に品を枯らすだけの期間、商品を寝かせて置く事が出来ないためではなからうかと弁解をしながらも憂色を帯びて、県当局が適当に保護し、対策を講ずる能力のないのを非難しはじめた事が あった。主要な海産物だからである。
三十三間堂の作者も熊野路の漁業として漁夫は鯛つる鰹つると、鰹を上げたのは事実を重んじたからである。ただ鯛を第一に数へたのは魚とさへ言へば鯛を代表として思ひ浮べるわが国人の習慣によるものであらう。尤も熊野の海とて鯛が絶無な筈もない。それ故
小鯛ひくあみのうけ縄より来めりうれしわざある潮崎の浦
といふのは決して絵そら事ではない。潮崎の浦といふのは思ふに周参見、串本などの湾に相当するものと考へられる。さもなくば荒荒しい潮の岬(シホノミサキ)の附近に浦と呼び、又この歌の趣にふさはしいところはありさうに思へないからである。串本ならば、その地の豪家某氏が附近の漁夫に命じて小鯛ならぬ見事な大鯛を得させて、土地に来遊中交を訂した画家永沢蘆雪に贈つて、その返礼に大鯛を抱へた福神の図の傑作をせしめたといふ話(拙著閑談半日所収「熊野と応挙」参照)も残つてゐるから、熊野の灘では漁場としては申本附近が比較的、鯛の——それも寧ろ、巨大なものが獲れるらしい。筆者も先年帰省中、串本辺で得たといふすばらしい大鯛を賞味した記憶がある。目の下幾何尺あつたやらおぼえぬが、目方は確か四貫幾百目とやらで、大皿を埋めたその頭部だけで一家五人(食懲の旺盛な我等兄弟の二壮夫も加はつて)を満足させて余りがあつたのを覚えてゐる。
鮪や鰹などは日中に釣るものであるが烏賊や鯖や鯵などは夜釣りと称して夜船で火をたいて釣る。漁火である。赤、海上の一美観である。
シビ——東京でいふ鮪は今でこそ大部分大敷といふ網で獲るが以前は前述の如く重に釣つたもので、筆の軸位の太さの綱に処々釣鈎をつけてそれへ餌として烏賊をさして大海へ投げ込んで置き、目標には小さな標を浮けて置き、樽に旗を立てて其旗の動きによって魚のかかつたのを知つて引き上げる。これを縄ハエ(普通シビナワ)と云つてゐる。東京では総称的にマグロ といつてシビはそのうちの特殊なものになつてゐるのに、紀州ではそのシビで代表して総称的にはシビと呼んでマグロはその一種とされてゐる。この関係はまるで逆であるがどんな理由によるか、まだ考へても見ない。
底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店
初出:1936年(昭和11年)4月4日、『熊野路』(新風土記叢書2)として小山書店より刊行
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2015.9.23 UP