熊野路
佐藤春夫
【杭のかしらに積む雪と盛りくらべたるわつばめし】
木の切株の上に積む自雪をたとへて木挽連が麦飯ならぬ白い二百目米をわつばに盛り上げた様を述べたものである。わつばは檜を薄くそいでわげたものを桜の皮でとぢてわがねた上に生漆(きうるし)を施した弁当用の食器である。一般にめんつうとかめつばとか呼ぶものの方言である。丸い径三四寸の食器に盛り上げた白い飯を、木の切株に降り積んだ白雪と見たてたのはごく自然な比喩であらう。
紀州は南国、就中、熊野はその南端の地方、黒潮の影響を受けて古くから牟婁(温室の意といふ)といふ名称で呼ばれてゐる気候温暖の地で、浜木綿(はまゆふ)や大谷わたりなどのやうな亜熱帯植物が繁茂して天然紀念物の指定を受けてゐる程の土地柄。海に沿うた地方では積雪はおろか纔に地に敷くほどの降雪も絶無ではないがごく稀に見る程度の土地だけれども、
山深く入って黒潮の恩恵に遠ざかると雪の積ることも無論珍らしくはあるまい。冬も二月一杯はさすがに海岸の地方でも思ひがけない寒風に吹かれることがあつて、奥(川奥の意)は雪ぢやと身ぶるひする日も時たまはあるのだから。
底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店
初出:1936年(昭和11年)4月4日、『熊野路』(新風土記叢書2)として小山書店より刊行
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2015.12.22 UP