熊野路
佐藤春夫
漁者樵者
秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者 蕪村
一 木挽長歌
ここに木挽長歌といふ一篇は慶応乙丑に作られたまま作者の篋底と作者が孫の脳底とに残されたまま久しく世に埋もれてゐたものであるが、熊野地方の樵者とその生活とを知る上には逸する事の出来ない一文献である。
木の国の 熊野の人は かし粉くて このみ〳〵の 山ずま居 今はむかしとなりはひも うらやす〳〵と浦々は 魚(な)つり あみひき 勇魚とり あこととのふる あまが子も 声いさましくあしびきの 山は炭やき 松ゑんのかまど賑ふそま人は 福がめぐりて きのえねの よき年がらと打集ひ 噂山々 さき山は 斧をかたげて 山入し 大(おほ)木を 伏せてきりさばき 五けん十間 ひく板は 挽賃けんに三百文 きりさべともに八九ふん 束ね三ぷん 浦べでは こつぱ一把が二十四もん もちも平(ひら)だもねがあがり おあしお金はつかみどり こんな時せつは あらがねの 土ほぜりより玉くしげ 二つどりなら 山かせぎ 木挽々々とひきつれて 二百目米を 日に壱升 杭のかしらに つむ雪と もりくらべたる わっば飯 七日七日の山まつり 百に身鯨六十目 貫八百の磯魚も 歯ぼしたゝぬ と 言ひもせず 三百五十の酒を酌み 一寸先はやみくもと かせぐおかげで このやうな栄耀(ええう)するこそ 楽しけれ しかはあれども 此ごろは 京の伊右衛門の前挽(まえびき)も 三分のあたひ 二両二分 やすりかすがひ 二朱づゝと 二百五十の 上村の 煙草のけぶり 吹きちらし かたるおやぢを けぶたがる 若い同志は 馬が合ひ 近所隣へ かけかまひ 内証ばなしも きさんじに 声高々と 夜もすがら 天狗の鼻を もてあまし ひるは終日(ひねもす)ひきくらし 骨を粉にした もうけ金 腰にまとひて 我宿へ かへりきのとの 丑の春 はや春風が ふくりんの はやりの帯を しめのうち 千とせを契る 松の門 お竹お梅が花の香の 金もて来いの 恋ひ風に まき散らしたる坊が灰 元のはだかで 百貫の男一匹 千匹の鼻かけ猿が笑ふとも もうけた銭をいたづらに つかはざるのがまさるぢやと そまのかしらが 独りごと むかしの人は樫粉(かしこ)くて あはれこのみは あさもよし 木をくうて 世を渡るむしかも
返歌
過ぎたるはなほ及ばざるがごとしと言はん杣木挽 金をもうけの過ぎたるはなほ
作者懸泉堂椿山翁は筆者が曾祖父である。歌は翁が反覆して自ら口吟しつつ口授したものが筆者の父の四歳の記憶に残ってゐたものが、後に故翁の篋底から未定の初稿の発見せられしものや他人の手になつた浄書の決定稿などの発見によつて確実になつたものである。
初稿には題も長うた狂歌木換をうたへるとあるとほり常談めかした掛け言葉や悪意のない笑のうちに時人を諷諭せんとするこの戯詠に現れた作者の意嚮の一目瞭然たるものはともかくとして、元治甲子から慶応乙丑にかけての明治維新直前の不安な空気が仙界に近い熊野の山中にも漂ひ来て、当時六十六歳の田舎翁を前代未聞と驚かせ憂へさせた経済的事情の真相をはじめ熊野の地の固有の風俗習慣や当年の樵者の生活状態の一般など、必ずしも注釈を要しないまでも、注釈があった方が面白さは加はるものと思はれる。
一篇の戯詠に対して果してそれほどの必要があらうか、また注釈を必要とする幾多の句に対しそれがどの程度まで真意を明かにし得るか、我ながらおぼつかなさを覚えるが、不完全ながらにもこれの注釈が故郷の地を、その漁者樵者を語るよすがとなる一事は、この話題に就て漫然と断片的な興 味の多くは抱いてゐるのにその根幹となるものを見出し兼ねてゐた筆者にとつて杖を得た思ひをさせた。早速これに縋つて談興を進めよう。これも祖先が遺徳のおかげの一つである。それに以下の解の殆んど大部分も家大人梟睡先生の垂教の賜である。
かくて椿山翁が口伝の遺稿は世を距てて七十年の後にその孫と曾孫とによつて小解を加へられて世に出たわけである。一家の私事ではあるが赤多少の奇である。敢てこれらの私事を吹聴するのをも人の子の情として笑つて寛恕されたい。この情はやがて禿筆を呵して郷土を語らうとする情と相似たものだからである。
底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店
初出:1936年(昭和11年)4月4日、『熊野路』(新風土記叢書2)として小山書店より刊行
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2015.9.21 UP