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熊野路

佐藤春夫


   熊野路

熊野国の彊域は北の方木の国に連り、南に走りて本州の最南岬角潮岬を形成し更に東北に迂廻して大和の吉野を包繞し、延びて錦山坂(後世荷坂峠と呼ぶ)となりて伊勢に界し、東南は熊野灘に面し、西は紀州水道に臨み、その広袤東西約三十五里、南北約十二三里、海岸線は延長七十五里に及び居れりと称せらる。
                      ——小野翁遺稿「熊野史」第三頁

 わが故郷熊野地方といふのは現代の地方行政区制で云へば和歌山県下の東、西の両牟妻郡と三重県に属する南、北の牟実郡を総括するものと考へて大過ないであらう。だから日本地図の中部地方をひろげてみて和歌山県の田辺から三重県の尾鷲(ヲワセ)といふあたりの——刻下は紀勢鉄道と称する省線の新線が工事を急いでゐるから未成鉄道の標記でつながれてゐる辺 ——近年市制を布いた新宮を中心に各約二十里程南北へ延びてゐる海岸線に沿うて、大和の山並が太平洋に接してゐる所に纔にある土地である。厳密にはもと上古高倉下命の裔が世々領し給うたのを後に成務帝の御世に其地を熊野国と称して国造を置かれたのが後世は熊野三山の社領となつた土地でもあったか。いづれは時代とともにその彊域にも消長はあつたらうし、郷土の史に暗い自分はこれを直ぐには明示することも出来ない。地が広いから自づと二分して東の方を奥熊野、西の方を口熊野と区分されてゐる。太田川の辺を境とする。

 大台原を中心とする大山嶽の裾の大きな襞が延びて半島を形成してゐるその尖端の地方である。大海と大山とが相迫ってゐるといふところにこの地方の第一の特色がある。地名熊野のクマもコモルのコモと同じ言義で樹木の繁茂といふより地勢の複雑なところを意味するといふ説さへある程である。熊野川のやうな相当な河もありながら、その流域もただ山ばかり、下流に到っても平野といふ程のものもない。岩の多い山腹でなければ、 砂礫ばかりの海浜である。住宅を営むに足る極く狭い平地を除いては耕作する田畑などあらう道理もない。山腹に段々畑が開けても労ばかり多くて一向農作には適しない。そのくせ気候の温和な土地には神代の昔から人が居る。地は貧しく人は多い。人々は海を探り、山を分けて生活を求めた。更に大洋を渡つてアメリカへの出稼をさへ志した。

 自分は処女作の或る部分にこれ等の意味をこめたつもりで己が故郷の地方を語って、
『ずつと南方の或る半島の突端に生れた彼は、荒い海と険しい山とが激しく咬み合ふその自然の胸の間で人間が微少にしかし賢明に生きてゐる小市街の傍を、大きな急流の川が、その上に筏を長長と浮べさせて押合ひながら荒荒しい海の方へ犇き合つて流れて行く彼の故郷のクライマツクスの多い戯曲的な風景に比べて(武蔵野の一隅の)この丘つづき、空と雑木原と、田と、畑と、雲雀との村は実に小さな散文詩であつた。』
と辿々しくひとり合点な筆つきで記した、殆んど同じ意味の事を
「熊野路は、海と山とを引受けて漁夫は鯛つる鰹つる。杣は樵(きこ)りてたつきとも、五穀なければ春秋の花や果(このみ)の畑主……」
と浄瑠璃の作者は、さすがに一筆で鮮かに、確実にこの地方の特色を描破してみる。

 自分が自分の故郷の地方の生活を語らうとするに当つて漁者と椎者との生活を主としてこの地方の自然と人生とを見ようとする理由はも早これ以上に縷説する要もなささうである。

 もとより自分が択んだこの角度より外にはこの地方を語るに適切な話題がないといふつもりは少しもない。それどころか神武の帝が御東征の古代から、さては牟婁の湯へ帝が屢鸞興を進められた万葉集などに見えてゐる熊野やさてはこの地の水軍が大に振うたと伝へられてゐる源平の時代、仏教の盛大と同時に熊野三山に朝廷の御帰依が浅くなかつた頃、さては吉野朝と熊野の事などを考へて、史的方面から熊野を見、語る事も必ずや有意義であり、趣味の深いものに相違ないとは思ふが、自分は己が分に応じて人間が自然と闘ひながらも特別の恩寵を受けて生きてゐるこの地方の有様を述べようと漁者と椎者とを見るのである。

 彼等は真に熊野の人間らしい生活をしてゐる生活者である。直接に海と山とのただ中に生きたこの人々の生活にこそ熊野の地の特色が最も多くうかがはれ従つて他の地方と異る生活相も彼等によつて代表されるわけである。熊野の民を仮りに四分して、その各の一を、漁者、樵者、郷外移住者(この一半は都会、 一半は海外)、さうしてその他のすべての人々が残りの四分の一を占めてゐると言つたら、統計表としての間違ひはたとひあらうとも、感銘を重んずる詩的な表現として決して大過ないつもりである。否、熊野には猿と権現様の御使の鳥との外は漁者椎者あるのみと言ふも過言ではあるまい。

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底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店

初出:1936年(昭和11年)4月4日、『熊野路』(新風土記叢書2)として小山書店より刊行

(入力 てつ@み熊野ねっと

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2015.8.30 UP



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