埋もれた日本
――キリシタン渡来文化前後における日本の思想的情況―― (4/5)
和辻哲郎
以上のごとく見れば、応仁以後の無秩序な社会情勢のなかにあっても、ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想的情況は、十分に成立していたということができるのであろう。だから半世紀の間にキリシタンの宣教師たちのやった仕事は、実際おどろくべき成果をおさめたのである。
しかし文化的でない、別の理由から出た鎖国政策は、ヒステリックな迫害によって、この時代に日本人の受けたヨーロッパ文化の影響を徹底的に洗い落としてしまった。その影響の下に日本人の作り出した文化産物も偶然に残存した少数の例外のほかは、実に徹底的に
そういうことの行なわれていた間の日本人の思想的情況を知る材料として、私は『
この書は、それ自身の標榜するところによると、
この書を通読すれば、おそらく誰の目にも性質の異なる部分が識別せられるであろうと思う。(一)は高坂弾正の立場で物を言っている部分である。(二)は信玄一代記と山本勘助伝とのからみ合わせで、勘助の子の禅僧が書き残した記録を材料としたであろうと思われる。(三)は
『甲陽軍鑑』がこれらの部分において語っていることは、非常に多種多様であるが、しかしそれを貫いて一つの道徳的理想が動いているように思われる。軍法の巻においてさえも、その主要な関心は、戦術や戦略の末ではなくしてその「もと」を探ることにあった。よき軍法の「もと」はよき采配である。よき采配のもとはよき法度である。よき法度のもとは正直・慈悲・智慧である。これが軍法の原理なのである。そういう着眼であるから、信玄の一代記にしても、戦国武士の言行録にしても、道徳的訓戒としての色彩が非常に濃い。
ここにはその一例として、「命期の巻」(巻三―巻六)にある「我国をほろぼし我家をやぶる大将」の四類型をあげてみよう。
第一は、ばかなる大将、鈍過ぎたる大将である。ここでばかというのは智能が足りないということではない。才能すぐれ、意志強く、武芸も人にまさっている、というような人でも、ばかなのがある。それはうぬぼれのある人である。「我することをば
もっとも、家来というものは、そういう悪意はなくとも、主君のすることをほめるものである。それに対してはしかるべき心得がなくてはならない。賢明な大将は、事のよしあしは自分で判断する。したがって「善きことをほめるは道理と思ひ、悪しきことをほめるは、我への馳走、時の挨拶と心得る」。しかるに、人によると、悪しきことをもほめる者を軽薄者として怒るのがある。これはばかである。一家中に、主君に直言するごとき家来は、五人か三人くらいしかないであろう。大部分は軽薄をいうのが通例である。それを心得ていないで怒るというのは、ばかというほかはない。
大将がばかであるゆえに起こってくる結果は、同じようなばか者を重用するということである。そのばか者がまた同じようなばか者に諸役を言いつける。したがって家中で「
第二は、利根すぎたる大将である。利害打算にはきわめて鋭敏であるが、賢でも剛でもない。「大略がさつなるをもつて、をごりやすうして、めりやすし」。好運の時には踏んぞりかえるが、不幸に逢うとしおれてしまう。口先では体裁のよいことをいうが、勘定高いゆえに無慈悲である。また見栄坊であって、何をしても他から非難されまいということが先に立つ。自分の独創を見せたがり、人まねと思われまいという用心にひきずられる。他をまねる場合でも、「人見せ善根」になってしまう。
こういう大将は、
第三は、臆病なる大将である。「心愚痴にして女に似たる故、人を
外聞によって動くような臆病な大将の下では、軽佻な、腹のすわらぬ人物が
第四は、強すぎたる大将である。心たけく、機はしり、大略は弁舌も明らかに物をいい、智慧人にすぐれ、短気なることなく、静かに奥深く見えるのであるが、しかし何事についてもよわ見なることをきらう。この一つの欠点のゆえに、いろいろな破綻が生じてくるのである。家老は大将のこの性格をはばかって、その主張しようとする穏健な意見を、十分に筋を通して述べることができぬ。したがって不徹底、因循に見える。大将はそれを不満足に感ずる。そのすきにつけ込んで、野心のある侍が、大将の機に合うような強硬意見を持ち出すと、大将はただちに乗ってくる。野心家はますますそれを
以上の四類型は国を滅ぼす大将の類型であるが、それによって理想の大将の類型が逆に押し出されてくる。それは賢明な、道義的性格のしっかりとした、仁慈に富んだ人物である。そこには古来の正直・慈悲・智慧の理想が有力に働いているが、特に「人を見る明」についての力説が目立っているように思われる。うぬぼれや虚栄心や猜みなどのような私心を去らなくては、この「明」は得られないのであるが、ひとたび大将がこの明を得れば、彼の率いる武士団は、強剛不壊のものになってくる。ということは、道義的性格の尊重が彼の武士団を支配するということなのである。この書のねらっている武士の理想は、道徳的にすぐれた人物となるということのほかにはないと思う。
一般に武士の理想を説く場合にも、正直・慈悲・智慧の理想が根柢となっていることは明らかであるが、しかしこの書全体にわたってなお一つの特徴が明白に現われているのを我々は指摘することができる。それは強烈な自敬の念である。前に多胡辰敬の家訓のなかから、おのれを卑下すればわが身の罰が当たるという言葉を引いたが、この心持ちはこの書では非常に強く説かれている。特に武道、男の道、武士道などを問題とする場合に顕著である。これらの言葉は本来は争闘の技術を言い現わしていたのであるが、そこに「心構え」が問題とされるようになると、明白に道徳的な意味に転化して来る。そうしてそこで中心的な地位を占めるのは、自敬の念なのである。おのれが臆病であることは、おのれ自身において許すことができぬ。だからおのれ自身のなかから、死を怖れぬ心構えが押し出されてくる。そういう人にとっておのれの面目が命よりも貴いのは、外聞に支配されるからではなく、自敬の念が要求するからなのである。同様に、おのれの意地ぎたなさや卑しさは、おのれ自身において許すことができぬ。だからここでもおのれ自身のなかから、男らしさの心構えが押し出されてくる。廉潔を
この道徳の立場は、「敵を愛せよ」という代わりに「敵を敬せよ」という標語に現わし得られるかもしれない。「信玄家法」のなかに、敵の悪口いうべからずという一項がある。敵をののしることによって敵を憤激させれば、それだけ敵が強まることになって損である、という利害打算もあるいは含まれているのかもしれぬが、しかし根本にある考えは、尊敬し得ないようなものは敵とするに価しない、敵に取ったということは尊敬に価する証拠であるというにあるであろう。そういう心持ちを詳細に説明した個所もある。信玄自身は謙信に対する尊敬によってこのことを実証していたのであった。信玄の遺言といわれるものは、勝頼に対して、おれの死後謙信と和睦せよ、和睦ができたらば、謙信に対して頼むと一言言え、謙信はそう言ってよい人物であると教えている。真偽はとにかく、信玄はそういう人物と考えられていたのである。
※青空文庫より転載させていただきました。
(てつ@み熊野ねっと)
2018.3.28 UP