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埋もれた日本
――キリシタン渡来文化前後における日本の思想的情況―― (5/5)

和辻哲郎



 慶長の末ごろに小幡景憲が『甲陽軍鑑』を書いたのであったとすれば、そのころにもう徳川家康とくがわいえやすの新しい文教政策は始まっていたのである。この政策の核心は、日本人に対する精神的指導権を、仏教から儒教に移した、という点にあるであろう。かかる政策を激成したものは、キリシタンの運動の刺戟であったと思われる。

  秀吉ひでよしがキリシタン追放令を発布してから六年後の文禄二年(一五九三)に、当時五十二歳であった家康は、藤原惺窩ふじわらせいかを呼んで『貞観政要じょうがんせいよう』の講義をきいた。五十八歳の秀吉が征明の計画で手を焼いているのを静かにながめながら、家康は、馬上をもって天下を治め得ざるゆえんを考えていたのである。だから五年後に家康が政権を握ったときには、彼は、秀吉が征明の役を起こした時と同じ年齢であったが、秀吉とは全然逆に、学問の奨励をもっておのれの時代を始めたのである。慶長四年(一五九九)の『孔子家語こうしけご』、『六韜三略りくとうさんりゃく』の印行を初めとして、その後連年、『貞観政要』の刊行、古書の蒐集、駿府すんぷの文庫創設、江戸城内の文庫創設、金沢文庫の書籍の保存などに努めた。そうして慶長十二年(一六〇七)には、ついに林羅山はやしらざんを召し抱えるに至った。家康がキリシタン弾圧を始めたのは、それより五、六年後のことである。

 家康に『貞観政要』を講義した藤原惺窩は、いかなる特殊の内にも普遍の理が存することを力説した学者であった。海外との交通の手助けなどもしている。そう眼界の狭い学者であったとは思えない。彼の著として伝わっている『 仮名性理かなせいり』あるいは『千代ちよもとぐさ』は、平易に儒教道徳を説いたものであるが、しかし実は、彼の著書であるかどうか不明のものである。同じ書は『心学五倫書』という題名のもとに無署名で刊行されていた。初めは熊沢蕃山くまざわばんざんが書いたと噂されていたが、蕃山自身はそれを否定し、古くからあったと言っている。惺窩の著と言われ始めたのは、その後である。しかるに他方には『本佐録』あるいは『天下国家の要録』と名づけられた書物があって、内容は右の『五倫書』と一致するところが多い。これは本多佐渡守ほんださどのかみの著と言われながら、早くより疑問視せられているものである。新井白石あらいはくせきは本多家から頼まれてその考証を書いているが、結論はどうも言葉を濁しているように思われる。しかしそれがいずれであっても、同一書を媒介として惺窩、蕃山、本多佐渡守の三人の名が結びついているという事実は、非常に興味深いものである。

 本多佐渡守は三河の徳川家の譜代の臣であるが、家康若年のころの野呂一揆に味方し、一揆が鎮圧したとき、徳川家を 逐電ちくでんして、一向一揆の本場の加賀へ行ってしまった。そうしてそこで十八年働いた後に、四十五歳の時、本能寺の変に際して家康のもとに帰参したのである。その閲歴から見て狂熱的な一向宗信者であったと推測せられるが、しかしキリシタンの宣教師の報告によると、家康の重臣中では彼が最もキリシタンに同情を持っていたという。慶長六年(一六〇一)には彼はオルガンチノに対してキリシタンをほめ、その解禁のために尽力した。同十二年にも、パエスのために斡旋あっせんしている。宣教師に対して、禁教緩和の望みがあるような印象を与えたのは、彼とその子息の上野守こうずけのかみなのである。一向宗の狂信が依然として続いていたとすれば、おそらくこういう態度を取ることはできなかったであろう。したがって帰参のころには一向宗の熱はめていたと推測するほかはない。しかし一向宗の信仰に没入して行くような性格は、依然として変わらなかったであろうし、そのゆえにキリシタンに対する理解や同情があったであろうことも、察するに難くない。それがおのずから宣教師によき印象を与えたのであろう。が、周囲の情況は彼をキリシタンに近づけるよりは、むしろ儒教の方へ押しやったのである。そこで同じ性格の佐渡守が、『本佐録』において、熱烈な儒教の尊崇者として現われることになる。対象は変わって行くが、態度は同じなのである。天道の理、尭舜の道、五倫の教えは、ほとんど宗教的な情熱をもって説かれている。天道というのも、ここでは「天地の間のあるじ」なのであって、抽象的な道理なのではない。その「あるじ」が万物に充満していると説くところは、やや汎神論的に見えるが、しかしそれをあくまでも天地の主宰者として取り扱うところに、佐渡守の狂信の対象であった阿弥陀仏や、キリシタンの説いていたデウスとの相似を思わせる。そういう点を考えると、この書が佐渡守に帰せられていることは、非常に興味深いことになるのである。惺窩や蕃山は冷静な学者であって、佐渡守のような狂信的なところはない。江戸幕府の文教政策を定め、儒教をもって当時の思想の動揺を押えようとした当時の政治家は、冷静な理論よりもむしろ狂信的な情熱を必要としたのであろう。

 林羅山は慶長十二年(一六〇七)以後、幕府の文教政策に参画した。その時二十五歳であった。羅山はそれ以前から熱心な仏教排撃者であって、そういう論文をいくつか書いているが、それによると、解脱げだつは一私事であって、人倫の道の実現ではない、というのである。同時にまた彼は熱心なキリシタン排撃者であって、仕官の前年に『排耶蘇はいやそ』を書いている。松永貞徳まつながていとくとともに、『妙貞問答みょうていもんどう』の著者不干ふかんハビアンを訪ねた時の記事である。その時、まず第一に問題となったのは、「大地は円いかどうか」ということであった。羅山はハビアンの説明を全然受けつけず、この問題を考えてみようとさえしていない。次に問題となったのは、プリズムやレンズなどであるが、羅山はキリシタンに対する憎悪をこういう道具の上にまであびせかけ、光線の現象などに注意を向けようとはしていない。最後に取り上げられたのは、『妙貞問答』やマテオ・リッチの著書などである。羅山は、『妙貞問答』における神儒仏の批判が、単なる罵倒であって、批判になっていない、という点を指摘する。しかし羅山自身の天主に関する批判も同様である。「聖人を侮るの罪のみは忍ぶべからず」という態度であるから、ほとんど議論にはならないのである。したがってこの書は、青年羅山の眼界が非常に狭く、考え方が自由でないことを思わせる。

 羅山は非常に博学であって、多方面の著書を残している。その言説は権威あるものとして尚ばれていたであろう。しかし『排耶蘇』に現われているような 偏頗へんぱな考え方は、決して克服されてはいないのである。またその点が、狂信的な情熱を必要とした幕府の政治家に、重んぜられたゆえんであろう。彼が幕府に仕えて後半世紀、承応三年(一六五四)に石川丈山いしかわじょうざんに与えて異学を論じた書簡がある。耶蘇は表面姿を消しているが、しかし異学に姿を変じて活躍している、あたかも妖狐の化けた妲己だっきのようである、というのである。その文章は実に陰惨なヒステリックな感じを与える。少しでも朱子学のらちの外に出て、自由に物を考える人は、耶蘇の姿を変じたものとして排撃を受けなくてはならないのである。彼の『草賊前後記そうぞくぜんごき』には、熊沢蕃山をかかる異学の徒としてあげている。蕃山は羅山よりもはるかに優れた学者であるが、羅山を重用する幕府の下においては、弾圧を受けざるを得なかったのである。

 家康が儒教によって文教政策を立てようとしたことには、一つの見識が認められるでもあろう。しかしヨーロッパでシェークスピアやベーコンがその「近代的」な仕事を仕上げているちょうどその時期に、わざわざシナの古代の理想へ帰って行くという試みは、何と言っても時代錯誤のそしりをまぬかれないであろう。家康自身はかならずしも時代に逆行するつもりはなかったかもしれないが、彼の用いた羅山は明らかに保守的反動的な偏向によって日本人の自由な思索活動を妨げたのである。それが鎖国政策と時を同じくして起こったのであるから、日本人の思索活動にとっては、不幸は倍になったと言ってよかろう。当時の日本人の思索能力は、決して弱かったとはいえない。 中江藤樹なかえとうじゅ、熊沢蕃山、山鹿素行やまがそこう伊藤仁斎いとうじんさい、やや遅れて新井白石、荻生徂徠おぎゅうそらいなどの示しているところを見れば、それはむしろ非常に優秀である。これらの学者がもし広い眼界の中で自由にのびのびとした教養を受けることができたのであったら、十七世紀の日本の思想界は、十分ヨーロッパのそれに伍することができたであろう。それを思うと、林羅山などが文教の権を握ったということは、何とも名状のしようのない不愉快なことである。

 鎖国は、外からの刺戟を排除したという意味で、日本の不幸となったに相違ないが、しかしそれよりも一層大きい不幸は、国内で自由な討究の精神を圧迫し、保守的反動的な偏狭な精神を跋扈せしめたということである。慶長から元禄へかけて、すなわち十七世紀の間は、前代の余勢でまだ剛宕ごうとうな精神や冒険的な精神が残っているが、その後は目に見えて日本人の創造活動が萎縮してくる。思想的情況もまたそうである。

(昭和二十六年二月)

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底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「中央公論」
   1951(昭和26)年3月号
入力:門田裕志
校正:米田
2012年1月5日作成
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青空文庫より転載させていただきました。

(てつ@み熊野ねっと

2018.3.28 UP



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