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埋もれた日本
――キリシタン渡来文化前後における日本の思想的情況―― (3/5)

和辻哲郎



 民衆のなかに右のような思想が動いていたとして、次に第二に、新興武士階級においてはどうであったであろうか。

 新興武士階級も武力をもって権力を握ろうとする点において旧来の武士階級と異なったものではないが、しかし応仁以前の伝統的な武家とは一つの点においてはっきりと違うのである。それは旧来の武家が伝統の上に立っていたのに対して、新しい武家が実力の上に立っているという点である。鎌倉時代の幕府政治を作り出した武家は、「源氏」というごとき由緒の上に立っていた。武家の棟梁とその家人との関係が、全国的な武士階級の組織の脊梁せきりょうであった。そうして初めは、彼らの武力による治安維持の努力が実際に目に見える功績であった。しかし後にはただ特権階級として、伝統の特権によって民衆の上に立っていたのである。しかし民衆運動が勃興して後には、由緒の代わりに実力が物をいうようになった。単なる家柄の代わりに実際の統率力民衆を治める力が必要となったのである。だから政治的才能の優れた統率者が、いわゆる「群雄」として勃興して来た。彼らを英雄たらしめたのは、民衆の心をつかみ得る彼らの才能にもよるが、また民衆の側の英雄崇拝的気分にもよるのである。

 群雄のうち最も早いものは、北条早雲である。彼は素姓のあまりはっきりしない男であるが、応仁の乱のまだ収まらないころであったか、あるいは乱後であったかに、上方かみがたから一介の浪人として、今川氏のところへ流れて来ていた。ちょうどそのころに今川氏に内訌ないこうが起こり、外からの干渉をも受けそうになっていたのを、この浪人が政治的手腕によってたくみに解決し、その功によって愛鷹山あしたかやま南麓の高国寺城を預かることになった。これがきっかけとなって、北条早雲ほうじょうそううんの関東制覇の仕事が始まったのである。彼が伊豆堀越御所を攻略して、伝統に対する実力の勝利を示したのは、延徳三年(一四九一)すなわち加賀の一向一揆の三年後であった。やがて明応四年(一四九五)には小田原城を、永正十五年(一五一八)には相模さがみ一国を征服した。ちょうどインド航路が打開され、アメリカが発見されて、ポルトガル人やスペイン人の征服の手が急にのび始めたころである。

 北条早雲の成功の原因は、戦争のうまかったことにもあるかもしれぬが、主として政治が良かったことにあるといわれている。特に政道に わたくしなく、租税を軽減したということが、民衆の人気を得たゆえんであろう。その具体的な現われは、小田原の城下町の繁盛であった。それは京都の盛り場よりも繁華であったといわれているが、戦乱つづきの当時の状況を考えると、実際にそうであったかもしれない。

 この北条早雲の名において、『早雲寺殿二十一条』という 掟書おきてがきが残っているが、これはその内容の直截ちょくせつ簡明な点において非常に気持ちの好いものである。その中で最も力説せられているのは「正直」であって、その点、伝統的な思想と少しも変わらないのであるが、しかしその正直を説く態度のなかに、前代に見られないような率直さ、おのれを赤裸々に投げ出し得る強さが見られると思う。「上たるをば敬ひ、下たるをばあはれみ、あるをばあるとし、なきをばなきとし、ありのまゝなる心持、仏意冥慮にもかなふと見えたり」とか、「上下万民に対し、一言半句もうそを云はず、かりそめにもありのまゝたるべし」とかという場合の、ありのままという言葉に現わされた気持ちがそれである。虚飾に流れていた前代の因襲的な気風に対して、ここには実力の上に立つあけすけの態度がある。戦国時代のことであるから、陰謀、術策、ためにする宣伝などもさかんに行なわれていたことであろうが、しかし彼は、そういうやり方に弱者の卑劣さを認め、ありのままの態度に強者の高貴性を認めているのである。そうしてまたそれが結局において成功の近道であったであろう。

 なお早雲の掟には、禅宗の影響が強く現われている。彼のありのままを説く思想の根柢はたぶん禅宗であろう。部下の武士たちへの訓戒もそこから来ているのであって、武術の鍛錬よりも学問や芸術の方を熱心にすすめているのは、そのゆえであろう。力をもって事をなすは下の人であり、心を働かして事をなすのが上の人であるとの立場は、ここにもうはっきりと現われていると思う。

 早雲と同じころに 擡頭たいとうした越前の朝倉敏景も注目すべき英雄である。朝倉氏はもと斯波しば氏の部将にすぎなかったが、応仁の乱の際に自立して越前の守護になった。そうして後に織田信長おだのぶながにとっての最大の脅威となるだけの勢力を築き上げたのである。『朝倉敏景十七箇条』は、「入道一箇半身にて不思議に国をとりしより以来、昼夜目をつながず工夫致し、ある時は諸方の名人をあつめ、そのかたるを耳にはさみ、今かくの如くに候」といっているごとく、彼の体験より出たものであるが、その中で最も目につくのは、伝統や因襲からの解放である。人事については家柄に頼らず、一々の人の器用忠節を見きわめて任用すべきことを力説している。戦争については、吉日を選び、方角を考えて時日を移すというような、迷信からの脱却を重大な心掛けとして説いている。その他正直者の重用を説き、理非を絶対に曲げてはならないこと、断乎たる処分も結局は慈悲の殺生であることなどを力説しているのも、目につく点である。我々はそこに、精神の自由さと道義的背景の硬さとを感じ得るように思う。

 やや時代の下るもののうち注目すべきは、『 多胡辰敬家訓たごときたかかくん』である。これはたぶんシャビエルが日本へ渡来したころの前後に書かれたものであろう。多胡辰敬は尼子あまこ氏の部将で、石見いわみ刺賀さっか岩山城を守っていた人であるが、その祖先の多胡重俊しげとしは、将軍義満よしみつに仕え、日本一のばくち打ちという評判を取った人であった。後三代、ばくちの名人が続いたが、辰敬の祖父はばくちをやめ、応仁の乱の際に京都で武名をあげたという。辰敬の父も「近代の名人」と評判されたが、実際はばくちをきらっていた。『辰敬家訓』として述べるものも、実はこの父の教訓にほかならない。辰敬自身は、青年時代以来諸国を放浪して歩いたが、その間に、「力を以て事をなすは下の人、心を働かして心にて事をなすは上の人」と悟ったのである。悟ってみると父の教訓がしみじみと思い出されて来る。で、心を正直に持ち、ついに身を立てることができたのであった。

 辰敬はこの体験にもとづいて、学問の必要を何よりも強く力説している。したがってこの家訓は、学問と道理とに対する関心のもとに、主として学問の心得を説いたものだといってよいのである。

 まず初めに手習い学問の勧めを説き、「年の若き時、夜を日になしても手習学文をすべし。学文なき人は理非をもわきまへ難し」と言っているが、ここで勧められているのは、文芸を初め諸種の技芸である。しかもその勧めは、前にあげた兼良の『小夜のねざめ』と同じく、平安朝の文芸を模範とした教養の理想のもとに立っているのである。それを説いているのが戦国末期の勇猛な武士であるというところに、我々は非常な興味を覚える。

 が、『辰敬家訓』の一層顕著な特徴は、「算用」という概念を用いて合理的な思惟を勧めている点である。彼はいう、「算用を知れば道理を知る。道理を知れば迷ひなし」。その道理というのは、自然現象の中にあるきまりを意味するとともに、また人間の行為を支配する当為の法則をも意味している。しかもその後者を考えるに際して、かなり綿密である。たとえば人間の道理の一例として、彼は、「身持が身の程を超えれば天罰を蒙る」という命題をかかげる。これはギリシア人などが極力驕慢を警戒したのと同じ考えで、ギリシアにおいても神々の罰が覿面てきめんに下ったのである。しかし彼はそのあとへ、「位よりも卑下すれば我身の罰が当る」と付け加えている。自敬の念を失うことは、驕慢と同じく罰に価するのである。ここに我々は、実力格闘の体験のなかから自覚されて来た人格尊重の念を看取することができるであろう。彼はこういう道義的反省をも算用と呼んだのであった。家の中で非常に親しくしている仲であっても、公共の場所では慇懃いんぎんな態度をとれとか、召使は客人の前では厳密に規律を守らせ、人目のない時にいたわってやれとか、というような公私の区別も、彼にとって算用であった。人を躾けるやり方についても、小さい不正の度重なる方が、まれに大きい不正を犯すよりは重大である、ということを見抜くのは、やはり算用である。大なるとがはまれであるが、小なるとがは日々に犯されるゆえに、ほっておけば習性になる。だから大きいとがは人によって許してよいが、小さいとがは決して許してはならないのである。こういう算用を戦国武士が丹念にやっていたということは、注目に価すると言ってよいであろう。

 以上の三つの家訓書は、目ぼしい戦国武士がみずから書いたものである。それだけで新興武士階級の思想を全面的に知ることはむずかしいかもしれぬが、しかしここに指導的な思想があったことを認めてもよいであろう。そういう視点を持ちながら、キリシタンの宣教師たちが戦国時代末期の日本の武士たちについて書いているところを読むと、なるほどそうであったろうとうなずける点が非常に多いのである。戦国の武士の道義的性格は決して弱いものではなかった。また真実を愛し、迷信を斥け、合理的に物を考えようとする傾向においても、すでに近代を受け入れるだけの準備はできていた。

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青空文庫より転載させていただきました。

(てつ@み熊野ねっと

2018.3.28 UP



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