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埋もれた日本
――キリシタン渡来文化前後における日本の思想的情況―― (2/5)

和辻哲郎



 以上のごとく、応永、永享の精神から見れば、応仁以後の時代は下剋上の時代、秩序なき時代、社会崩壊の時代であった。この新しい時代を代表するものは、(一)政治化した土一揆や宗教一揆に現われているような民衆の運動、(二)足軽の進出に媒介せられた新しい武士団の勃興、ひいては群雄の勃興である。ここではまず第一民衆に視点を置いて、その中にどういう思想が動いていたかを問題としよう。

 応仁以後においては、土一揆や宗教一揆は明らかに政治運動化して来た。文明十七年(一四八五)の山城の国一揆、長享二年(一四八八)の加賀の一向一揆などはその著明な例である。これらは兼良の没後数年にして起こったことであるが、世界の情勢からいうと、インド航路打通の運動がようやくアフリカ南端に達したころの出来事である。

 このころ以後の民衆の思想を何によって知るかということは、相当重大な問題であるが、私はその材料として室町時代の物語を使ってみたいと思う。その中には寺社の縁起物語の類が多く、題材は日本の神話伝説、仏典の説話、民間説話など多方面で、その構想力も実に奔放自在である。それらは、そういう寺社を教養の中心としていた民衆の心情を、最も直接に反映したものとして取り扱ってよいであろう。民俗学者が問題としているような民間の説話で、ただこの時代の物語にのみ姿を見せているもののあることを考えると、この時代の物語の民衆性は疑うことができない。ただしかし、それらの物語を特に応仁以後の時代の製作として確証し得るかどうかは疑問である。中にはもっと古い時代の写本が見いだされているものもある。しかしそれらの物語がさかんに書写され、したがってさかんに受用されたのが、室町末期であったことは、認めてよいであろう。その限り我々は、これらの物語において応仁以後の時代の民衆の心情に接し得るのである。

 さてそのつもりでこの時代の物語を読んで行くと、時々あっと驚くような内容のものに突き当たる。中でも最も驚いたのは、苦しむ神蘇りの神を主題としたものであった。

 その一つは『熊野の本地』である。これは日本の神社のうちでも最も有名なものの一つである熊野権現の縁起物語であるから、その流布の範囲はかなり広汎であったと考えなくてはならない。ところでそこに語られているのは、熊野に今 まつられている神々が、もとインドにおいてどういう経歴を経て来たかということなのである。したがってそこには、インドのマガダ国王の宮廷に起こった出来事が物語られている。しかもそこに描かれている世界は、衣裳、風俗から役人の名に至るまで、全然『源氏物語』ふうであって、インドを思わせるものは何もないのである。

 女主人公は観音の熱心な信者である一人の美しい女御である。宮廷には千人の女御、七人の きさきが国王に侍していたが、右の女御はその中から選び出されて、みかどの寵愛ちょうあいを一身に集め、ついに太子を身ごもるに至った。そのゆえにまたこの女御は、后たち九百九十九人の憎悪を一身に集めた。あらゆる排斥運動や呪詛じゅそが女御の上に集中してくる。ついに深山に連れて行かれ、首を切られることになる。その直前にこの后は、山中において王子を産んだ。そうして、首を切られた後にも、その胴体と四肢とは少しも傷つくことなく、双の乳房をもって太子をはぐくんだ。この后の苦難と、首なき母親の哺育ということが、この物語のヤマなのである。王子は四歳まで育って、母后の兄である祇園精舎ぎおんしょうじゃの聖人の手に渡り、七歳の時大王の前に連れ出されて、一切の経過を明らかにした。大王は即日太子に位を譲った。新王は十五歳の時に、大王と聖人とを伴なって、女人の恐ろしい国を避け、飛車で日本国の熊野に飛んで来た。これが熊野三所の権現だというのである。

 この物語では、女主人公の苦難や、首なくしてなおその乳房で嬰児を養っている痛ましい姿が、物語の焦点となっているが、しかしこの女主人公自身が熊野の権現となったとせられるのではない。ただ首なき母親に哺育せられた憐れな太子と、その父と伯父とのみが熊野権現になるのである。しかるに同じ『熊野の本地』の異本のなかには、さらに女主人公自身を権現とするものがある。そのためには女主人公が首を切られただけに留めておくわけに行かない。首なき母親に哺育せられた新王は、この慈悲深い母妃への愛慕のあまりに、母妃の蘇りに努力し、ついにそれに成功するのである。そうして日本へ飛来する時には母妃をも伴なってくる。だから首なくしてなおその乳房で嬰児を養っていた妃が熊野の権現となるのである。ここに我々は苦しむ神、悩む神、人間の苦しみをおのれに背負う神の観念を見いだすことができる。奈良絵本には、首から血を噴き出しているむごたらしい妃の姿を描いたものがある。これを霊験あらたかな熊野権現の前身としてながめていた人々にとっては、十字架上に槍あとの生々しい救世主のむごたらしい姿も、そう珍しいものではなかったであろう。

 ところでこの苦しむ神、蘇る神の物語は、『熊野の本地』には限らないのである。有名な点において熊野に劣らない 厳島いつくしま神社の神もまた同じような物語を背負っている。『厳島の縁起』がそれである。ここでも物語の世界はインドであり、そうしてそれが同じように『源氏物語ふうに描かれているのであるが、しかし話の筋はよほど違っている。宮廷には父王とその千人の妃があり、それに対して新王は、恋愛のことにははなはだ理想主義的であって、理想の女のほかには妃嬪きひんを寄せつけない。ついに新王は、さまざまの冒険の後に、理想の王女を遠い異国から連れてくる。この美しい妃が女主人公なのである。そこでこの妃のその後の運命を語る段になると、話は俄然がぜん『熊野の本地』に一致してくる。父王の千人の妃たちの憎悪と迫害がこの新王の美しい妃に集まり、妃を孤立させるために相人そうにんを利用して新王を遠い地方へ送り出してしまう。守り手のない妃のところへは武士をさし向け、妃を山中に拉して首を切らせる。そうして、ここにも首なき母親の哺乳が語られるのである。しかし新王が十二年の旅から帰って来て妃の運命を知った時には、話はまた違ってくる。新王はただ一人で妃の探索に出かけ、妃の夢の告げによって山中で妃の白骨と十二歳になった王子とを見いだすのである。そこで不老上人に乞うて妃を元の姿に行ないかえしてもらうということが、話の本筋にはいってくる。妃の蘇りにとってさまたげとなったのは、妃の首の骨がないことであった。王子はその首の骨を取り返すために宮廷に行き、祖父の王の千人の妃の首を切って母妃の仇を討ったのち、母妃の首の骨を見つけ出して来た。それによって美しい妃の蘇りが成功する。この蘇った妃と、その首なきむくろに哺まれた王子と、父の王と、それが厳島の神々なのである。苦しむ神、死んで蘇る神は、ここでは一層顕著であるといわなくてはならぬ。

 わたくしはこういう物語がどういう源泉から出て来たかは知らないのである。物語の世界がインドであるところから、仏典のどこかに材料があるかとも思われるが、しかしまださがしあてることができぬ。物語自体の与える印象では、どうも仏典から来たものではなさそうである。死んで蘇る妃は、「十二ひとへにしやうずき、 くれないのちしほのはかまの中をふみ、金泥こんでいの法華経の五のまきを、左に持たせ給ふ」などと描かれている。これは全然日本的な想像である。のみならず、苦しむ神の観念は、仏典と全然縁のないらしい、民間説話に基づいた物語のなかにも現われている。そうなるとこの観念は、日本の民衆の中からき出て来たと考えるほかないのである。

 民間説話に題材を取ったらしい物語のなかで、最も目につくのは、伊予の三島明神の縁起物語『みしま』である。この明神はもと三島の郡の長者であった。四万の倉、五万人の侍、三千人の女房を持って、栄華をきわめていたが、不幸にして子がなかった。で、北の方のすすめにしたがって、長谷の観音に 参籠さんろうし、子をさずけられるように祈った。三七日みなぬかの夜半に観音は、子種のないことを宣したが、長者は観音に強請して、一切の財産を投げ出す代わりに子種を得るということになった。やがて北の方は美しい玉王を生んだが、その代わり長者の富はすべて消えて行った。長者は北の方とただ二人で赤貧の暮らしを始める。ある朝女房は、玉王を背負うて磯の若布を拾いに出たが、赤児を岩の上にでも落としてはという心配から、砂の上に玉王をおろして、ひとりで若布拾いにかかった。そのすきに鷲が舞いおりて、玉王をさらって飛び去った。母親は「四万の倉の宝に代へてもうけたる子を、何処へ取り行くぞや」と言って追いかけたが、鷲は四か国の境の山岳の方へ姿を消してしまった。長者夫妻は非常な嘆きに沈んで、鷲が飛んで行ったその深山の中へ、子をさがしに分け入った。

 玉王をさらった鷲は、阿波の国のらいとうの衛門の庭のびわの木に嬰児をおろして、虚空に飛び去った。衛門は子がなかったので、美しい子を授かったことを喜び、大切に育てた。すると玉王の五歳の時、国の目代もくだいがこのことを聞いて、自分も子がないために、無理に取り上げて自分の手もとに置いた。七歳の時にはさらに阿波の国司がこのことを聞いて、目代から玉王を取り上げ、傍を離さず愛育したが、十歳の時、みかどがこれを御覧ごろうじて、殿上に召され、ことのほか寵愛された。十七の時にはもう国司の宣旨せんじが下った。ところが筑紫へ赴任する前に、ある日前栽せんざいで花を見ていると、内裏だいりを拝みに来た四国の田舎人たちが築地ついじの外で議論するのが聞こえた。その人たちは玉王を見て、あれはらいとうの衛門の子ではないかと言って騒いでいたのである。玉王はそれを聞いて、自分が鷲にさらわれた子であることを知った。で、みかどに乞うて四国の国司にしてもらい、ほんとうの親の探索にかかった。まず阿波の国に行って衛門に逢い、子を鷲にさらわれた者を探したが、一人もなかった。ついで伊予の国に行って、法会ほうえにこと寄せて二十歳以上の人々を集め、同じく子を鷲にとられた者を調べたが、ここでもわからなかった。そこで玉王はいら立って、老年のために出頭しない者があるならば、引き出物をしても連れて来いと命じた。そのとき、四か国の境の山中に、世を離れて住んでいる老人夫婦があることを言い出したものがあった。それが取り上げられて、ついに探索隊が派遣された。

 探索隊は深い山の中をさがし回って、ようやく老夫婦を見いだしたが、その老夫婦は、この十七年来人に逢ったことわずかに二度であると語り、浮世に出て来ることを がえんじなかった。探索隊の役人たちは、やむなく老夫婦をしばり上げ、むちうち、責めさいなんで、山から引きずりおろして来た。里に出て宿を取るときには、逃亡を怖れて老夫婦にうすを背負わせた。老夫婦の受けた苦難はまことに惨憺たるものであったが、物語は特にその苦難を詳細に描いている。それは玉王の前に連れ出されたときの親子再会の喜びをできるだけ強烈ならしめるためであろう。しかも作者は、この再会の喜びをも、実に注意深く、徐々に展開して行くのである。まず玉王は、連れ込まれて来た老夫婦をながめて、それらを縛り上げている役人たちをしかりつけ、急いでその縄を解かせる。そうしてこの寛仁な国司が十七年前に鷲にさらわれた愛子であることを、一歩ずつ老夫婦に飲み込ませて行く。それに伴なって老夫婦は徐々に歓喜の絶頂に導かれて行くのであるが、それはまた読者にとっても歓喜の絶頂となるのである。

 三島の明神とはこの苦難を味わった長者のことである。長者の妻もまた 讃岐さぬきの国の一の宮としてまつられている。我々はここにも苦しむ神の類型を見ることができるであろう。物語の作者は、長者夫婦が愛児を失った時の悲嘆や、山から無理やりに連れ出されてくるときの苦しみを、特に力を入れて描写している。それはこの神々を苦しむ神として示そうとする意図を作者が持っていることの明らかな証拠である。そういう意図が、日本の民間説話である長者伝説を材料として、非常に力強く表現せられているところを見ると、苦しむ神の観念が日本の民衆のなかから湧き出て来たと考えても、あまり行きすぎではないように思われる。

 このように苦しむ神死んで蘇る神は、室町時代末期の日本の民衆にとって、非常に親しいものであった。もちろん、日本人のすべてがそれを信じていたというのではない。当時の宗教としては、禅宗や浄土真宗や日蓮宗などが最も有力であった。しかし日本の民衆のなかに、苦しむ神、死んで蘇る神というごとき観念を理解し得る能力のあったことは、疑うべくもない。そういう民衆にとっては、キリストの十字架の物語は、決して理解し難いものではなかったであろう。

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青空文庫より転載させていただきました。

(てつ@み熊野ねっと

2018.3.28 UP



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