熊野路
佐藤春夫
【持ちも平田も値があがり】
持ちはかちもちととなへて山の板製造場から川端の川船場まで肩で持ち出す運送の仕事である。
いただきに杣板のせてくだる子がうしろ手さむき那智の山かぜ
うちおける板目にきれし黒髪をゆゆしと見つつせこやなげかむ
のいみじき歌詠は例の諸平のもので、この持ちの作業に従事してゐる杣や木挽の妻を詠じたものである。
いただきとあるのは肩や背ではなく頭の上にのせて戴いて運んでゐる様で、この風は熊野には海岸でも見られたもので以前は三輪崎の漁婦は大きなたらひのやうなはんきりといふものに魚を入れて、それを載いて新宮に販ぎに出たものであつた。彼女等を町の人々はいただきと呼んでゐた。その後、肩で運ぶやうになつてゐたから今は三輪崎のいただきももうあるまい。
平田は川船の名、ここではそれを山の稼人等の術語に用ゐてゐる。持ちが運んだものを港に近い問屋場まで積んで下る平田船の賃銀の請である。これ等の諸賃銀も上つた。
底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店
初出:1936年(昭和11年)4月4日、『熊野路』(新風土記叢書2)として小山書店より刊行
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2015.11.2 UP