熊野路
佐藤春夫
【大木(おほき)を伏せてきりさばき五間十けん挽く板はひきちん間に三百文】
まづ山入りした先山は大木を伐り倒して切り捌き、さて木挽等がそれを五間十間と挽く。板一間といふのは六尺平方である。 即ち長さ一間のもの幅一尺の板ならば六枚、六寸の板ならば十枚といふわけである。それ等の挽き賃が一間に対して賃金三百文であるといふ。
三百文を一口に今の三銭といつたのではあまり大ざっばで、換算にも何もならないが、心持から云つて仮りにさう言って置いてもよからうか。これでも好況で賃金が上つたといふのだから、その以前が思ひやられる。木挽職人一日の仕事は板二間半を挽く者を最も上手な職人としたといふから、熟練工の最高賃銀がまあ七銭五厘であつたらしい。熊野の木挽唄に
木挽乞食は一字の違ひ一字ちがうたらみな乞食
といふ自嘲の寒酸な諧謔があり、諸平に既に上げた
山かつがまとふつづりの古衣さしも思はずよそに聞きしを
山里のあさ木(ぎ)のはしら朝よひに立つとはすれどほそき煙や
の詠があつたわけでもある。
底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店
初出:1936年(昭和11年)4月4日、『熊野路』(新風土記叢書2)として小山書店より刊行
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2015.11.2 UP