熊野路
佐藤春夫
【過ぎたるはなは及ばざるがごとしと言はん杣木挽をもうけの過ぎたるはなほ】
維新後の好況に乗じて濫伐する一方で、当座は植林を忘れてゐたらしい熊野の山の現状や、明治二十二年東京の人が熊野へはじめて木挽器械を北海道から持ち込んで以来機械工場になつて後の木挽などをはじめ熊野に就てはなほ語るべき多くを持つてゐるが、木挽長歌の小解を終つたのを一段落として筆硯を洗はう。
なほ椿山翁の室米子刀自中西氏が父維順翁に水丘斎文丸と戯号して下婢長歌
の作——浪華新町に女中奉公に出て身を持ちくづした果は春雨にきるかさと
いふものを患うた女を歌つた長うた狂歌の風俗詩があつてそれが木挽長歌の
先駆をしてゐるかとも思ふが、然るべきところに書き漏してゐるのに気づい
たから一言追記して置く。維順翁は懸泉堂一族の文学の祖である。
底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店
初出:1936年(昭和11年)4月4日、『熊野路』(新風土記叢書2)として小山書店より刊行
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2015.12.24 UP