熊野路
佐藤春夫
【骨を粉にした もうけ金 腰にまとひて 我宿へ かへりきのとの丑の春はや春風がふくりんの はやりの帯をしめのうち……】
切株にわつば飯の雪の積る冬、山祭の鯨肉に舌鼓打つ冬も押迫り、きのえ子の年も暮れ乙丑(きのとうし)の春が来る。山稼ぎの人々も骨を粉にして一期なり半期なりを稼ぎ終ると、さすがにわが宿恋しく稼ぎ蓄めた金を腰にまとうて里にかへれば、里は乙丑のお正月気分にはや春風が吹き、里の人々は流行といふので競つてふくりんの帯を締めてゐる。
ふくりんといふのは呉絽と云つた舶来のものらしく、今はそのころの流行のかたみの破片でもあらうか拓すりなどによく使はれてゐるのを見かけるが、地の極く厚いアルパカ見たいなものと思へばいい。このごろ男女ともに帯として愛用したとか。男の大人は黒小児は青竹又は紫、婦人は紫茶など少女は赤、紫、青竹など、が多かつたといふ。家大人も青竹色のふくりんの帯を与へられたが、それがきらひで困つたといふ話である。
その後絹ふくりんといふものが流行してこれは羽織として同じく男女とも愛用したとの事。絹ふくりんは呉絽よりももつとアルパカに似て横糸だけが毛であつたらしい。この方は明治二十年ごろまでも着てゐる人があつたやうに思ふと云ふ。当年七十四歳の家厳は十四五の頃絹ふくりんの羽織を着用した記憶があると、これ等もすべて家厳の談に憑る。
里に下りて来てこの流行を見た木挽の若い衆、金のあるのにまかせて早速最新流行で高価なふくりんの帯を買ひ入れると、早速締めて意気揚揚とくぐり入るのは、折から松の内注連を飾つた里の家。
底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店
初出:1936年(昭和11年)4月4日、『熊野路』(新風土記叢書2)として小山書店より刊行
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2015.12.24 UP