熊野路
佐藤春夫
【かまど賑ふ杣人は福がめぐりてきのえ子(ね)のよき年がらと打ちつどひ】
「山里のあさ木(ぎ)のはしら朝よひにたつとはすれどほそき煙や」と諸平をして歌はしめたのは往年の事、今は煤をとる目的でくすべる松煙ほどかまど賑ふ好況のめぐり合せて来のえねの(木の好値(えね)の意をもかくしてゐる好きをええ、場合によつてはつづめてえといふのは熊野の方言である)。この甲子(きのえね)の年は元治元年(正月二十五日に改元されてただ一年切りの年号ではあるが元年には相違ない。西暦一八六四年)である。長州征伐の軍が発した年である。
その結果による幕府の威信失墜は後年でなければまだ暴露されなかつたが、それでも世態の不安を増した上に、年来濫発の悪貨幣の積害が物価の騰貴といふよりも通貨の著しい低落を誘発した結果は諸物価の暴騰を喚起した年で、その一般の米価や、熊野の木挽に関する諸賃銀、用具の価などに影響した事実は以下の句によつて知られる。諸色の高直は忘れて労働賃金の暴騰に弦惑された山間の民の生活の膨張などが当年六十六歳の椿山翁を驚かせ且つ憂へさせて、これが実情を後世に伝へようといふのが動機となって木挽長歌が成つたものと見られる。
従つてこの長歌はこれからが本題であらう。然るに註釈者は経済史に関しては全くの無知なところへ幕末も天保以後、ちやうど元治あたりから徳川政府の最後の苦闘がありありと経済状態に現れはじめ、たとへば死床の不正乱調な脈搏をさながらに最もメチヤメチヤになつて来てゐるらしいので、急に見当違ひな方面の参考書を一二種のぞいて見たぐらゐではさつぱり要領を得にくい。さうして何故にこの時期にこの現象を生じたかを断定する知識も史眼もないのは我ながら情ない。読者の寛恕と識者の叱正とを予めお願ひして置かう。
それにしても世外に悠悠自適した山間の老翁が当時の急激な時代の潮流を見通す眼力を欠いて、これらの事象を次代全国的な大変乱の前兆と知ることもなく、従つて何の不安をも感ぜずほんの地方的な一時の現象位に考へてゐたらしいのは是非もないが、後世明治維新といふ事実を史上で知り、このきのえねの年が維新前僅に四年であつたのを知る者には椿山翁がこの狂歌体の風俗詩も願る天下泰平に過ぎるのをおぼえるであらう。
しかし我等は後世に生れて来たおかげで事のなり行を悉く見てこれを客観し得たからに過ぎぬ。もしそれ当代に関する殆んど同様の事態に就ては何人も椿山翁に劣らず盲目であらう。実(げ)に時務を知る者は俊傑である。
底本:『定本 佐藤春夫全集』 第21巻、臨川書店
初出:1936年(昭和11年)4月4日、『熊野路』(新風土記叢書2)として小山書店より刊行
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2015.10.30 UP