葬儀の泣女と屍体を隠す葬礼
我国には葬式の折に泣女を用いたことは神代からある。天稚彦を葬るときに雉を泣女としたことは有名なものである。そしてこの習俗は時代とともに段々と泯び少くなったが、それでも各地に渉って古い面影を残している。和歌山県の熊野、伊豆の大島、愛知県の村々、沖縄の各島々にあったことは誰でも知っているが、私の手許にあるものは如何なる訳か北越地方が多い。そしてこの地方は前記の地方とは異りかつかつながらも今も行われているのである。石川県江沼郡橋立村では死者に最も親等の近い婦人が、白帷子を被つて号泣しつつ葬列に従うがこれを帷子被りと云うている。旧時は種々の繰言を云って慟哭したものだが、漸く廃れて今は稀れになった。全体私の考えるところでは、泣女の古い相はこの帷子被りのように、死者の身近き者が当ることになっていたのが、時勢とともに赤の他人の、しかもこれを半営業とする婦人を雇うようになったのであると信じている。福井県丹生郡越廼村蒲生津は日本海沿岸の漁村中でも大部落であるが、ここでは今でも泣女を雇う習俗がある。その女は殆ど専門的の老婆で、その報酬に米を与えるが、その米の多寡によって泣く程度を異にし、随って死者の貧富の度が知れる。米一升を与えれば一升泣と云い、二升ならば二升泣と云うている。そしてその泣き方は入念のものであって、霊柩が家を出る時から泣き始めて、死者の生前の家庭生活の内面を巧みに泣き語り、特に若い漁師が結婚後間もなく遭難した場合や、また愛児を残して永眠した場合などには、泣女の言々句々、悲痛を極めて遺族は言うまでもなく、葬列の人々をして断腸の思いあらしむると云うことである。さらに能登の七尾地方に行われているのは前記の作法と異り、泣女は葬式の前夜に招かれ、死者の枕許で悲しげな声で主人が死んだのならば、『飲みたい飲みたい言うたが、飲ますりゃよかった七尾の酒を』と調子をつけて泣きながら言い、主婦なれば『食いたい食いたいと言うたが、食わすりゃよかったカンショバ(カンショバは便所のこと、同地方では南瓜を作るに便所の屋根に蔓を這わす風がある)のたか南瓜を』と言い、小娘の夭死したのには、『したいしたいと言うたが、さすりゃよかった繻子の帯を』と泣き口説くと云うことである。しかしてこの七尾の泣女の作法は、明治以前まで殆ど全国的に行われた。死者の霊を巫女に憑らせて苦患を語らしめたものと共通しているが、その詮索を始めると柵外に出るので差控える。
我国の変態葬礼は、以上で総てを尽くしたものではない。弘法大師や親鸞上人が屍体を隠したこと、武田信玄や真田昌幸が遺骸を水中に投じさせたこと、及び山形県に行われたミサキ放しの故事や、遊女屋の亭主が死ぬと犬の死骸のように、首に縄をつけ町中を引きずり廻した習俗など、記すべきことが多分に残っているが、既に与えられた紙幅を越えたのでこれらはまたの機会に譲るとして擱筆する。
back