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本朝変態葬礼史 (6/9)

中山太郎

自分で水葬する補陀洛渡海

那智浦

 天平宝字五年に作られた法隆寺 流記るき資財帳を見るに、補陀洛山浄土画像一鋪と載せてあるから、補陀洛信仰は古く奈良朝から在ったことが知られる。しかるに平安朝の中頃から鎌倉期の初葉にかけ、補陀洛山に居る生身の観音菩薩を拝すると称して、志願ある者は小舟に打乗り海に出で、浪のままに流れ漂うて往生する事がさかんに行なわれた。発心集に一条院の御時の事とて、賀東聖かとうひじりと云う者が『補陀洛のせんこそ此の世の中のうちにて、此の身ながらもうでぬべき所なれ』とて、土佐国から解纜したことが載せてある。藤原頼長の日記である台記の康治元年八月十八日の条に、権僧正覚宗の談として、同人が少年のとき紀州那智に籠って修行していたが、その頃一人の僧があって現身に補陀洛山に祈参するとて、小さい船の上に千手観音の像を造り立て手に ※(「楫+戈」、第3水準1-86-21)かじを持たせ、祈請三年に及び北風を得て出発したとある。

 由来、紀州の熊野は死に関係の深い所で、地名の起りも隠り野――即ち墓所の転訛であろうとまで云われている。殊に我国の冥府の神である伊弉冊尊がこの地に祀られてから、一段とその関係が深くなった。屋島の戦場から脱れた平維盛が、二十七歳の壮齢を以て熊野から入水したのも、また補陀洛渡海の信仰が含まれていたのである。源平盛衰記に『三位入道船に移り乗り、遥かの沖に漕ぎ出で給ひぬ。思ひ切りたる道なれど、今を限りの浪の上、さこそ心細かりけめ、 三月やよいの末の事なれば春も既に暮れぬ。海上遥かに霞こめ浦路の山もかすかなり。沖の釣船の沈の底に浮き沈むを見給ふにも、我身の上とぞ思はれける。(中略)念仏高く唱へて、光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨と誦し給ひつゝ海にこそ入り給ひける』とあるのは、熊野で死ねば浄土に往かれると云う信仰が在ったためである。こうした信仰は長く同地を補陀洛渡海の解纜かいらん地としたのである。

 鎌倉幕府の記録である吾妻鏡天福元年五月二十七日の条には、聴くも あわれな補陀洛渡海の事件が載せてある。それは同年三月七日の事であったが、熊野の那智浦に居た智定房と云う者が補陀洛渡海をした。この智定房とは誰あろう右大将頼朝の近臣河辺六郎行秀の成れの果てである。頼朝が下野の那須野ヶ原で 狩猟かりくらをした折に、林の中から大鹿が一頭飛び出したのを頼朝が見つけ、六郎行秀を召して射て取れと命じた。武門の誉れと行秀は矢頃を計って鹿を射たが、天か時か、それとも行秀の業が拙なかったのか遂に射損じ、その鹿は小山四郎朝政のたおすところとなってしまつた。面目を失った行秀は狩場において薙髪ていはつし逐電して熊野に入り、ここで日夜とも法華経を読誦して、せめてもの後生を念じていたが遂にこの企てに及んだのである。智定房の乗った船は小さいもので、しかも乗るとともに外から戸を釘で打ち付けさせて日光の見えぬようにし、僅かに一穂の孤灯をかかげ、三十日分の食物を用意しただけであつたと云う。この知らせを受けた鎌倉中の武士は智定房の胸裏を察して悲嘆したとある。古歌の『執れば憂し執らねば物の数ならず、棄つべきものは弓矢なりけり』の心が偲ばれてあわれを誘う物語である。

 補陀洛渡海はこの外にもたくさんの事例が存しているも省略に従うとするが、これにはこの当時の信仰から導かれて、自ら入水して仏果を得ようとした『捨身往生』なるものが、一般に流行したことを参考せねばならぬ。 秋広王記あきひろおうきに安元二年八月十五日に桂川(京都)の投身者十四人、十六日十二人、十七日二十八人、以上五十四人、古今未だこの事を聞かずとある。沙石集に入水往生した僧のことを載せている。こうした流行が補陀洛渡海をさかんならしめたことは言うまでもあるまい。なおこの頃に火定かじょう(自ら火を放って焼死すること)または禅定ぜんじょう(生きながら土中に埋り死ぬこと)なども行われているが、これは習俗ではなくして限られた人達の信仰ゆえ、ここにはわざと除筆することとした。

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青空文庫より転載させていただきました。

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2018.4.2 UP



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