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本朝変態葬礼史 (5/9)

中山太郎

水葬と風葬と空葬の三つ

 葬法と云えば、土葬、火葬、水葬、風葬、空葬の五種であるが、我国でも古くはこの五種が行われ、その中で土葬、火葬、水葬の三種を常態とし、他の風葬と空葬との二種を変態とした。しかしながら現代の好尚から云うと、水葬を常態としたとは合点の往かぬことであるが、これは時代に伴う葬儀観の変化であって、昔は水葬が土葬や火葬よりも多く行われていたのである。万葉集に『沖つ国知らさむ君がやかた黄染きじめの棺神の海門渡る』とあるのは、黄に染めた柩が浪のままに流れて往く水葬の光景を詠じたものである。和歌山県の熊野浦では昔は死人があると菰に包み、『今度は鯛になって御座らッしやい』と言いながら海中へ投じたとのことである。これは鯛が熊野神の供御ぐごとなるからだと云われている。棺を船型に造り、入棺を船入ふないりと称え、それを置く場所を浜床はまゆかと云うことから推して、大昔は水葬ばかり行われていたものだと説く学者もあるが、これは決して左様に解すべきものではなく古く我国には鳥船信仰と云うがあり、霊魂は鳥の形した船に乗って天に昇るものと考えていたので、後までも棺を船型に造るようになったのである。水葬とともに他の土葬も火葬も並び行われたことは勿論である。ただ補陀洛渡海ふだらくとかいと称する、自分が生きながら水葬するものについては、後で詳しく述べるとする。

 風葬は一に 大蔵だいぞうとも云い、屍体を焼きそれを粉末となし、風のままに吹き飛ばしてしまう葬法である。養老の喪葬令に、三位以上及び別祖、氏宗うじのかみの外は墓を造ることを得ず、また墓を造る資格ある者でも、大蔵を慾する者はゆるせと規定してある。しかしてこの大蔵とは大天地の間に蔵すと云う意味で、その方法は風葬と同一である。我国では畏くも淳和上皇が遺詔して、御骨を砕いて粉となし、これを山中に散ずるよう命じ給うた。この時に中納言藤原吉野が『昔、宇治の稚彦わかひこ皇子が遺教して、自ら骨を散ぜしめ、後世これに傚う者があるも、これは皇子の事であって、帝王のあとにあらず、我国上古より山陵を起さざるは、未だ聞かざる所である』と諫諍を試みたが、遂に容れられずして上皇の遺勅の如く、大原野西山の嶺上にて散らし奉ったとある。しかしながら藤原吉野の言った、宇治稚彦皇子が風葬を行われたことは古史に見えぬ。これは当時の伝説であろうけれども、喪葬令に大蔵を聴せとある点から推すと、奈良朝以後には相当に行われたものと見て差支えあるまい。

 空葬はまたの名を樹葬と云い、霊柩を高く樹上に吊し行うものである。京都市外の嵯峨の清涼寺に近い八宗論池の側に、 棺掛桜かんかけさくらと云うのがある。伝説によると平安朝の貴族が遺言してこの樹に棺を掛け腐骨したので、かく云うのだと称している。福島県耶麻やま熱塩あつしお村に五峰山慈眼寺と云うがある。僧空海の開基したと伝える巨刹で、境内に人掛松ひとかけまつとて大木がある。昔は天狗が人をさらって来ては掛けたので、この名があると云うているが、恐らく空葬の習俗がほろびた後に天狗に附会したものであろう。薩南の奄美大島には各村に男子の入る事を禁じている場所があるが、これは巫女のろくめを葬る墓地であって、昔は巫女のろくめが死ぬとその屍体を柩に納めて樹の上へ掛け、三年間を風雨にさらした後に石で造った墓に収めたと云うことである。奄美大島から沖縄諸島にかけては、今に洗骨と称する変態の葬礼が存しているが、これに関しては後に述べるとする。そして朝鮮にはこの空葬が現今でも残っていて、疱瘡と痲疹はしかで死んだ子供は空葬にせぬと他に伝染するとて、迷信的にこれを行うている。

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青空文庫より転載させていただきました。

(てつ@み熊野ねっと

2018.4.2 UP



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