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花井の紙子

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

木村仙秀氏は雜誌『彗星、江戶生活研究」五巻二号(昭五、二)に紙子姿と題し園女、其角、正安 許六、吾伸、正秀、秋之坊等の発句と院本、浮世草子類の文句を引き紙子姿の風俗情致、紙子の産地など述べられた。その中に和漢三才図会に「紙衣、按紙衣奥州白石、駿州安部川、紀州華井、葉摂州大阪出之、華井紙衣特佳、造之用草菎蒻根、洗浄煮熱、刺稈心易徹為度、冷定剝去皮擋之以続厚紙塗柿渋晒乾足蹈手揉軟用、一夜露宿則去柿渋之臭或不加柿渋作亦可」とある産地のうち安部川のことを述べられ、「紀州の華井及び摂州大阪に就いては未だ考えて見ない」とある。もっとも木村氏は「仙台の浄瑠璃聞かん紙子売」(木村氏はこの句の作者を逸名としているが、作者は花畝でタ紅に載った句だ)の句を引き仙台にも産したよしを記しているが、「関寺の名さへ寂しき紙子かな、咫尺」の句が百番句合に出ている所から見ると、関寺という所も産地でなかったかと思う。しかしそれは兎に角、紀州の華井とは何処であろうかと、紀州人たる私は読後直ぐ思考を禁じ得なんだが、南方先生から華井は紀州牟婁郡花井荘花井村、即ち今の和歌山県東牟婁郡九重村大字宮井で北山川と十津川が合流して熊野川となる所と示教された。

『十寸穂のすゝき』(文政十年)には「花井紙子、北山川の側花井村にて漉紙子」とあり、紀伊続風土記にも花井紙子のこと出づ(巻九七、物産第五)。紀州にて紙を製造するは高野、神野、保田、二川、山地、熊野等あること続風土記に見えるが、内ち紀南は山地、熊野の二で山地紙は日高郡の山路地方で製せられるもので今も相当産額あり、同郡藤井村でもこれに倣うて製造するものがある。熊野紙は「奥熊野四村荘高山村小津荷村の二村より製し出す」と続風土記にあり、高山、 小津荷は現今東牟妻郡敷屋村に属し、今も製紙に従業するもの三十余戸あり、白河法皇熊野参詣前よりその業をなし来れりといい、当時は十津川紙と称し御用紙に供したという、御用紙とは午王紙のことならんかとは東牟婁郡誌の説だが何とも分らぬ。以前より半紙よりも塵紙の優良なを産し本宮紙の名で知られたこともあるが今は音無紙の名を以て愛用されている。那智には徐福紙があった、那智天満の臨済宗円心寺の住僧が、京都帰白院に住み俳諧の宗匠だった五升庵蝶夢にこれを贈り、徐福が製法を伝えた紙だと語ったことが百井塘雨の笈埃随筆(巻五)に記されている。しかしこの徐福紙は旅行家の塘雨も稀らしがり、円心寺僧も近村で使用するだけだと話しているから、製造は僅少であったらしく而して嘉永以前に既に絶えたものか続風土記にも記されていない。

これに反し花井の紙子は和漢三才図会にも記載せられ、華井紙衣特佳と特筆されている位だから良品を出したことは申すまでもなく相当盛んであったことも推測される。東牟婁郡誌の編者田原慶吉老は「九重村花井にては紙子を製して居った。これは明治三十年頃まで続けて居ったものだ、紙を堅横に漉き立て、もみて柔かくし、これに渋を引きて中に綿を入れて蒲団としたものである。九重では製茶を入れるタテ紙を製造したことがある、共に目下は廃絶している」(昭二、一熊野研究))というている。タテ紙は紀南では山地紙即ち楮を原料として製造した厚い日本紙でこれで袋を作り椎茸、蚕繭等を容れ貯蔵、運搬するものである。花井では明治三十年頃まで紙子を製造したのである。しかし旧藩時には蒲団のみでなく衣類用の紙子をも作り、明治になって衣類用が廃れてから蒲団用のみとなり、それも需要なきに到って廃絶したのであろうか。阿部川の紙子は俳句にも

阿部川の紙子の皺や浪のあや
たけ長くきるは貞任か阿部紙子

などあるは東西交通の要路だった東海道にあったからで、花井は良品として知られたが熊野の僻地であったため句とならなかったものだろうか。

(追記)新宮の小野芳彦翁(昭和七年二月十日没、年七十三)は昭和五年十月南方先生からのお尋ねにより、花井の紙子のことを調べられ紙子の残片など添えて先生の許へ報ぜられたと聞くが、小野翁はその後花井紙子の一文を発表、花井の紙子は花井の枝郷百夜月の光月山紅梅寺という尼寺に京のやんごとなき尼姫君が美濃の城主の息女二方と共に住まれ、後ち城主の息女のうちの一人の貞流尼が花井の里に別れて庵を結び里人に十文字紙を漉く法を授けたのが花井の紙の始まりである。貞流尼は寛永三年九月十二日示寂、墓は花井平の廷命山吉祥寺にある、美濃高須城主の息女なるべしとのことを書いてある。

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2017.4.11 UP




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