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泣不動

『謡曲三百五十番』番外五十一番No.50

※熊野の山伏が陸奥行脚の途中、近江で園城寺(おんじょうじ:通称「三井寺」、滋賀県大津市園城寺町)を訪ね、辺りに住む者から泣不動の縁起を聞く。園城寺の高僧・智興内供が病いにかかったとき、弟子の証空は師の身代わりになることを不動明王に願った。願いはたちまち成就して、智興の病いは平癒し、代わりに証空に病いが移った。証空は最期に不動尊に暇乞いしながら死を迎えようとした夢うつつの中で不動尊は証空に声をかけ涙を流した。

泣不動尊像は現在は京都市上京区の清浄華院にある。


<底本:日本名著全集『謠曲三百五十番集』>

 

ワキ次第「山又山の行末や。/\。雲路のしるべなるらん。

詞「抑これは本山三熊野の山伏にて候。我松島平泉の志あるにより。唯今思ひ立ちて候。

道行「山なみのかかるや雲の嶺つゞき。/\。日もたてぬきの空晴れて。霞もよそにかづらきや。高間につゞく大和路や。雪まだ残る山城の。国を過ぐれば近江路や。園城寺にも着きにけり。/\。

ワキ詞「急ぎ候ふ程に。園城寺に着きて候。心静かに参らばやと思ひ候。

シテ「月重山に隠れぬれば。扇をあげてこれを譬へ。花きんしやうに散りぬれば。雪を集めて春を惜む。実にも春宵一刻の。惜まるべしやくわしつのよの。松風までも心して。有難かりける時節かな。

ワキ「われ一心にたしやうし。護摩の壇上に念誦して。れう/\とある折節に。御法を尊む声すなり。いかなる人にてましますぞ。

シテ「これはこの寺のあたりに住む者なるが。妙なる法の御声にひかれて。爰に立ち寄るばかりなり。

ワ「実に/\爰は所から。しんせき年をふる寺の。

シテ「憂はかんしの古きに破れ。

二人「魂はさんかうの深きに痛ましむ。所も近き湖の。

地「さゝ波や三井の古寺来て見れば/\。昔ながらの花も吹き。月は隈なき春の夜の鐘ばかりこそ朧なれ。面白の折からや。しかも妙なる法の声。心耳を澄ます有難や。/\。

ワキ「なほ/\泣不動の謂懇に御物語り候へ。

シテ「語つて聞かせ申し候ふべし。抑園城寺のくわんしよ。ちこうないくうといつし人。行功年古り法力たけて。やいばの験僧と名を得たりしに。然れども。老既に時到つて。命終らんとせし程に。今生に於て五種の大願ありしが。未だ数終らざれば。それのみ臨終の障ぞと。心中に思ふその心を。せうくうといつし少僧の。師匠の命に代らんとて。この明王の御前に参り。願はくは我が一命を召されつゝ。ないくうを助け給へとて。肝胆を砕きて祈誓せしに。

クセ「その願や成就したりけん。ないくうの病は忽ち平癒し給ひて。月に晴れゆくうき雲の。心も軽くなり給へば。せうくうはその身も弱々と。未だ若木の初桜。嵐に沈む如くにて。花の顔ばせも面変してぞ臥しにける。今を最期の事なれば。持仏堂に参りて明王に暇申しつゝ。既に限と見えし時。夢ともなく現とも。定め難き御声にて。あらたに示現し給へり。せうくうは師匠の命に替り。この世を去らんとの。志は誠なれば。我また汝が命に代り。せうくうを助くべし。然れば定業を転ずる事。仏も叶はねば。三世れうたつの悲願にて。汝を今助くるとて。御影の御眼に涙を流し給へば。常住院の泣不動と御名を申せしは。有難かりし奇特かな。

ワキ「偖々せうくうはそのまゝ蘇生ありけるか。

シテ「中々の事明王地獄に行き給ひ。せうくうに代りしその有様。夢中に顕し見せ申さん。

地「今は何をかつゝむべき。今は何をかつゝむべき。かの明王の御前なる。矜羯羅制〓{大漢和:003302。た}迦の一つなりと。いふかと見れば仏前の。護摩の壇上に飛び上り。灯火の光も香の煙も立ち添ひて。明王の御影の陰に隠れけり。/\。

ワキ待謡「古りにしあとを改めて。/\。三宝加持の行に。五道の罪も消えぬべき。法の力ぞ有難き。/\。

地「五更の天も明けき。月の光や満ちぬらん。

後シテ「抑これは明王のつかはしめ。矜羯羅とは我が事なり。偖も不思議や明王は。冥途に到りせうくうが。こんしんに代るその心を。鬼神は更に知らずして。罪の軽重はからんとて。せうくうを提げ。浄玻璃の。鏡の前に引き向くれば。

地「不思議やな鏡の面かき曇り。/\。罪人の影も見えず。かくて一日一夜は。長闇となり果てゝ。軽重の善悪とゞまりぬ。

シテ「こは如何にと見る処に。

地「すは/\漸く霧晴れて。浄玻璃の面も明くなりぬ。偖罪人の影を見れば。せうくうにはあらずして。降服悪魔の大聖明王。赫奕としてうつり給へば。冥官冥衆。倶生神も。冠を地に着けて礼拝する。

シテ「理や明王の。

地「理や明王の。その本誓を尋ぬるに。胎蔵界のけうりやうりんしんたり。その誓願は余尊に勝れて。不動を信ずる人並に不動の行者をば。奴婢童僕となつて生々世々にきうしせんと。正に誓ひ給へり。その御形は青黒色にして。童子肥満の姿なり。火焔の中に立つては。

シテ「瞋恚の火を表し。

地「三毒の煩悩をせつかいせんとて。

シテ「利剣を提げ。

地「左の眼を閉ぢては。

シテ「衆生の苦患をかゞみ。

地「悉地菩提を表せんとては。

シテ「髪をしつはに束ね。

地「生死をとうせずして。

シテ「涅槃に到る。

地「偖浄土にも。

シテ「地獄にも。

地「片時。

シテ「離れず。

地「動かず。

シテ「守れり。動せずと書いては不動と読む。見我身者発菩提心。聞我名者。断悪修善。聴我説者得大智恵。知我心者即身成仏。実に有難き誓かな。/\。

 

** JALLC TANOMOSHI project No.1 ** ** 謡曲三百五十番集入力 **より
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2019.7.19 UP



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