飛雲
『謡曲三百五十番』No.231
※熊野の山伏が羽黒山へと向かう途中、木曽路の山中で一休みをしていると、薪を背負った一人の老翁が現れ、山伏たちとともに紅葉を愛でる。その老翁の正体は鬼神であった。作者不詳。
季節:九月
シテ:鬼神(前ハ老樵夫)
ワキ:山伏
ワキツレ:山伏
<底本:日本名著全集『謠曲三百五十番集』>
ワキ三人次第「遥けき国を熊野の。/\苔路や旅のはじめなる。
ワキ詞「これは本山三熊野の山伏にて候。我未だ羽黒山に参らず候ふ程に。唯今羽州に下向仕り候。
道行三人「行末も。遠山伏の摺衣。/\。遥々きぬる旅をしぞ。思の末もいく日数幾夜重なる麻衣。木曽の掛橋谷深み。かけ路の末も暮れかゝる。雲の八重山いかばかり/\。
ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これは早木曽路に着きて候。暫く此処に休まうずるにて候。
シテ一セイ「馴れつゝも。つま木の道の苦しきや。重なる老の。坂ならん。
詞「余りに苦しう候ふ程に。薪をおろし休まばやと思ひ候。
ワキ「不思議やなこれなる山賎を見れば。処こそ多きに。分きて紅葉の蔭に休む気色。心あり顔にて優しうこそ候へ。
シテ「元より賎しきしづの男の。何の心の候ふべき。彼の黒主が歌の心は。薪を負へる山人の。花の木蔭に休むけしきを。残し置きたる筆の跡。われらが休むも紅葉の木蔭。いたづら事にて候ふなり。
ワキ詞「げに心ある答かな。まづ/\紅葉の名所々々。彼方此方に多けれども。彼の業平の心には。神代も聞かずといひおきし。
シテ「名にも龍田の紅葉の色。
ワキ「初瀬の山は桧原が木の間に。色洩れ出づる村紅葉。
シテ「又は八入の岡のもみぢ葉。
ワキ「其外高雄。
シテ「嵐山。上歌地「色々を。四方に染めなす秋の日の。/\。朝には雪としぐれ夕には雨とそゝぎ。このもかのもの草木の。はや下染も時過ぎて。百入千入に薄き濃き。梢の秋はおもしろや。
シテ「白露も。地「白露も。時雨もいたくもる山は。下葉残らぬもみぢ葉を。かたしく今宵山伏の。一夜を明し給はゞ。我も帰りて夜もすがら。夜遊を。慰め申さんと谷の戸深く入りにけり/\。
来序中入「。
ワキ「あら恐ろしの気色やな。小夜も半に更け方の。
ワキツレ二人「月影くらき山中に。
ワキ「行くべき方もあらざれば。
ツレ「あらたなりける夢の告と。
ワキ「頼をかけて。
ワキツレ二人「読誦する。
ワキワキツレ三人「南無や開山役の優婆塞。殊には三熊野三所権現。力を添へてたび給へ。
地「不思議や峨々たる石根に。/\。黒雲一叢起ると見えしが。谷峰一同に響き震動し。盤石を砕き木を折る嵐に。先立ち飛ぶ雲の光の中に。現れ出づる鬼神の姿。面をむくべきやうぞなき。
舞働「。
ワキ「東方に降三世明王。
ワキツレ二人「南方に軍荼利夜叉明王。
ワキ「西方に大威徳明王。
ワキツレ二人「北方の金剛夜叉明王。
ワキ「中央に大日大聖不動明王。
三人「〓{おん:口へんに俺のつくり}呼〓{口へんに魯}々々旋荼利摩登枳。〓{おん}阿毘羅吽剣蘇〓{は:口へんに縛る}訶。
地「鬼神の通力忽ちに。/\。明王の繋縛にかゝると見えしが飛行をなして。上らんとすれども大地に倒れ伏し。起きつまろびつ己と身を責め苦しむ気色に行者の威力。いよ/\増さり珠数さら/\と押しもんで。見我見者。発菩提心。/\。聞我名者。断悪修善。聴我説者。得大智恵。智我心者。即身成仏。即身成仏と祈り伏せ。行者は遥に立ちのけば。
ワキ「不思議や今までは。
地「不思議や今までは大勢力の鬼神と見えしが。立ち所に弱り伏して。唯茫然と起き上りて。たゞよひ行くと見えつるが。ありつる姿は雲煙。ありつる姿は雲煙と立ち消えて。鬼神の姿は失せにけり。
(** JALLC TANOMOSHI project No.1 **
** 謡曲三百五十番集入力 **より
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2019.7.14 UP