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谷行

『謡曲三百五十番』No.225

※谷行(たにこう)とは修験道の掟のひとつで、峰入り修行中に病気になった者はその時点で谷へ生埋めにすること。 今熊野の山伏の阿闍梨が峰入りするため、弟子の今若とその母に暇乞いに来る。今若の母は風邪で寝込んでいた。今若は母の病気平癒を祈るため峰入りを希望し、帥は同行を許す。山伏一行と峰入した松若だが、風邪を発病し、谷行が行われた。


季節:十月
子方:松若
前シテ:母
ワキ:帥阿闇梨(先達)
重ワキツレ:小先達
ワキツレ:同行山伏
後シテ:伎楽鬼神

<底本:赤尾照文堂『謠曲二百五十番集』>

 

ワキ詞「是は今熊野梛の木の坊に。帥の阿闇梨と申す山伏にて候。さても某弟子を一人持ちて候ふが。かの者の父空しくなり。母ばかりに添ひて候。又某は近き間に峯入りを仕り候ふ程に。暇乞の為に唯今出京仕り候。いかに案内申し候。

子方「誰にて御入り候ふぞ。や。師匠の御出にて候ふよ。

ワキ「いかに松若。何とて久しく寺へは上り給ひ候はぬぞ。

子方「さん候母御の風の心地にて候ふ程に参らず候。

ワキ「言語道断。ゆめ/\さやうの事をも存ぜず候。まづ/\某が参りたる由御申し候へ。

子方「いかに申し候。師匠の御出にて候。

シテ「此方へと申し候へ。

子方「御入り候へ。

ワキ「久しく参らず候。又松若申され候ふは。風の心地の由承り候。いかさまに御座候ふぞ。

シテ「風の心地は苦しからず候。御心安く思しめされ候へ。

ワキ「偖はめでたう候。又近き間に峯入りを仕り候ふ程に。御暇乞の為に参りて候。

シテ「げに/\峯入とやらんは。大事の行とこそ承りて候へ。偖松若も御供にて候ふか。

ワキ「幼き者の供すべき道にてはなく候。

シテ「扨はめでたうやがて御帰り候へ。

ワキ「さらばやがて参らうずるにて候。

子方「いかに申すべき事の候。

ワキ「何事にて候ふぞ。

子方「松若も峯入の御供申さうずるにて候。

ワキ「いやいや唯今も母御に申し候ふ如く。此道は難行捨身の行体にて。思ひもよらぬ事にてあるぞ。其上母の風の心地を見捨つべきにあらず。かた%\思ひもよらぬ事。唯止り給へ。

子方「いや母の風の心地にて候へば。御祈のために参らうずるにて候。

ワキ「さあらばこのよしを母御に申さうずるにて候。又参りて候。松若峯入の供せうずるよし申され候ふ間。母御の風の御心地といひ。難行捨身の道と申し。かたがた叶ふまじき由申して候へば。御祈のために供すべき由申され候。いかゞ候ふべき。

シテ「仰承り候。まづは松若申す如く。峯入の御供申さん事こそ。最も望む所なれども。御身の父におくれし日より。唯独子のひたすらに。身に添ふ時だに見ぬひまは。露程だにも忘られず。思ふ心を思へかし。唯思ひとまり候へ。

子方「仰はさる御事にて候へども。身は難行の道に出でて。母の現世を祈らんと。思ひ立ちたるばかりなりと。

下歌地「かきくどきたる其景色。師匠も母ももろともに。あはれ孝行の。深きや涙なるらん。

シテロンギ「此上なれば力なし。さらば師匠の御供して。とく/\帰り給へや。

子方「帰るさの。心をとめて出づる日も。やがて急ぐや足引の。大和路遠き思かな。

シテ「思を尽す手向には。

子方「つゞりの袖も切るべきに。

地「別はさま%\の。行末知ればよそにのみ。見てや止みなん葛城や。高間の山の峯の雲。晴れぬは親の思子の名残惜しさをいかにせん。/\。

中入「。

ワキ「かくて少童思のほか。峯入の姿山伏の。兜巾篠懸苔の衣。

ワキツレ上歌「今日思ひ立つ道の辺の。/\。たよりぞ深き志。唯孝行の心力に。馬はあれども徒歩に行く。こは誰が為ぞ宇治の里。都出て。けふ瓶の原泉川。河風寒み千鳥鳴く声こそ今日の。夕なれ/\。ふりさけ見れば春日なる。/\。三笠の山をさし過ぎて。布留の神杉過ぎがてに。三輪の山もとよそに見て。誰我が庵と定めけん。峯の巌の苔衣。かたしき初むる葛城の露こそ宿なりけれ。/\。

ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これは早一の室に着きて候。暫くこれに在らうずるにて候。

重ツレ(小先達)「承り候。

子方「いかに申すべき事の候。

ワキ「何事にて候ふぞ。

子方「道より風の心地にて候。

ワキ「暫く。この道に出でてさやうの事をば申さぬ事にて候。それは習はぬ旅の疲にてあるべし。よく/\休み候へ。

重ツレ「松若殿道より風のこゝちの由承り候。先達に尋ね申さうずるにて候。

ツレ「尤もにて候。

重ツレ「松若殿風の心地と承り候ふは。何と御座候ふぞ御心もとなく候。

ワキ「さん候これはならはぬ旅の疲れにてありげに候。苦しからず候。

重ツレ「さては御心安く候。

ツレ「いかにかた%\へ申し候。松若殿旅の疲の由仰せられ候ふが。以ての外に見え給ひて候。何とて大法の如く谷行に行ひ給ひ候はぬぞ。

重ツレ「げにげにこれは尤もにて候。さらば先達へ其由申さうずるにて候。如何に申し候。先に松若殿の御事を尋ね申して候へば。旅の疲と承り候ふが。今ははや以ての外に見えさせ給ひて候。憚り多き申し事にて候へども。昔よりの大法にて候へば。谷行に行ひ申さうずる由皆々申され候。

ワキ「何と松若を谷行に行はれうずると候ふや。

重ツレ「さん候。

ワキ「大法の事にて候ふ程に。是非をば申さず候さりながら。かの者の心中余りに不便に候へば。大法のよしを懇に申し聞かせうずるにて候。

重ツレ「尤もにて候。

ワキ「いかに松若慥に聞け。此の道に出でてかやうに違例をする者をば。谷行とて忽ち命を失ふ事。これ昔よりの大法なり。御身に代るものならば。何か命の惜しからん。進退極まりて候。

子方「仰承り候。此道に出でて命を捨てん事こそ。最も望む所なれども。母の御歎の色。それこそ深き悲なれ。又仮初も他生の縁。皆人々に御名残こそ惜しう候へ。

地「何と言ひ遣る方もなく。皆声を上げ涙にむせぶ心ぞ哀れなる。

重ツレ地ツレサシ「かくて面々一同に。あはれ悲しき世の習。殊更これは大法の。冥見私なきまゝに。谷行にこそ行ひけれ。

ワキ「先達も師弟の契の中なれば。何と言ひ遣る方もなく。唯くれ/\と目もあやなく。

地「泣く涙せかれぬ道なれば。身も諸共にともかくも。ならばやと思ふさへ。適はぬ事ぞ悲しき。悲の。至りて悲しきは。生別離の心なり。なか/\死別ならば。かほどの歎よもあらじ。

クセ「一切有為の世の習。如夢幻泡影如露亦如電。応作如是観の心をも。思ひ知らずやさしもこの。行者の道には出でながら。火宅の門を去りやらで。猶安からぬ三界の。親子恩愛の。歎に等しかりけり。

重ツレ「かくて時刻も移るとて。地「皆面々に思ひきり。邪見の剣身を砕く心をなしてかの人を。険しき谷に陥れ。上に被ふや石瓦。雨土くれを動かせる。心を痛め声を上げ。皆面々に泣き居たり。/\。

重ツレ詞「はや日のたけて候。急ぎ御立ちあらうずるにて候。

ワキ「愚僧は罷り立つまじく候。

重ツレ「先達の御立なく候ひては。我々は何と仕り候ふべき。唯急いで御立ち候へ。

ワキ「まづ案じても御覧候へ。われら都へ上り。かの者の母には何と申すべきぞ。所詮病気も歎も同じ事にて候へば。われらをも谷行に行ひて賜はり候へ。

重ツレ「御歎尤もにて候。いかにかた%\へ申し候。先達の仰せ候ふは。病気も歎も同じ事なれば。先達も谷行に行ひ申せと仰せ候。さて何と仕り候ふべき。

ツレ「げに/\御歎尤もにて候。われわれ存じ候ふは。この年月の行徳もかやうの時にてこそ候へ。開山役の優婆塞。ならびに大聖不動明王の索にかけ。松若殿の御命を二度蘇生させ申さうずるにて候。

重ツレ「これは尤もにて候。いかに申し候。皆々申され候ふは。この年月の行徳もかやうの時にてこそ候へ。開山役の優婆塞。殊には大聖不動明王の索にかけ。松若殿の御命を蘇生させ申さうずるよし皆々申され候。

ワキ「さやうの事こそ聞かまほしう候へ。われらもこれにて祈念申さうずるにて候。

重ツレツレ地「さても師匠の其歎。理過ぐるありさまを。見聞くも同じ心かな。

ワキ「さりとも年月頼を掛くる。大聖不動明王の威力。

重ツレツレ地「又は山神護法善神。

わき「殊には開山役の優婆塞。

重ツレツレ地「哀愍納受垂れ給ひ。

地「使者の鬼神伎楽伎女を。遣はし助けおはしませ。

早笛「。

地「伎楽鬼神は飛び来り。伎楽鬼神は飛び来つて。行者のお前に跪ついて。頭を傾け仰を受けて。谷行に飛びかけつて。上に被へる土木盤石。押し倒し取り払つて。上なる土をばやはら/\と静かにかへしてかの小童を。恙もなく抱きあげ。行者のお前に参らすれば。行者は喜悦の色をなし。慈悲の御手に髪を撫で。善哉善哉孝行切なる。心を感ずるぞとて。帰らせ給へば伎楽も共に。御前を払つてさかしき道を。分けつ潜りつ上るや高間の雲霧つたふや葛城の。人の目にこそかゝらざれども。真は渡せる岩橋を。大峯かけて遥々と。虚空を渡つて失せにけり。

 

** JALLC TANOMOSHI project No.1 ** ** 謡曲三百五十番集入力 **より
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2019.7.14 UP



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