鵺
『謡曲三百五十番』No.223
※熊野参りののち京を目指す旅の僧が摂津国芦屋の里に着き、川岸のお堂に泊まっていると、埋もれ木のような舟に乗った怪しげな男が現れ、僧と言葉を交わす。男は僧に、自分が源頼政に討たれた鵺(ぬえ)の亡魂であることを明かす。世阿弥作。
季節:四月
ワキ:旅僧
前シテ:舟人
後シテ:鵺の霊
ワキ次第「世を捨人の旅の空。/\。来し方何処なるらん。
ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我此程は三熊野に参りて候。又これより都に上らばやと思ひ候。
道行「程もなく。帰りきの路の関越えて。/\。なほ行末は和泉なる。信太の森をうち過ぎて。松原見えし遠里の。こゝ住の江や難波潟。芦屋の里に着きにけり/\。
ワキ詞「急ぎ候ふ程に。是は早津の国芦屋の里に着きて候。日の暮れて候ふ程に。宿を借らばやと思ひ候。
シテサシ一声「悲しきかなや身は籠鳥。心を知れば盲亀の浮木。唯闇中に埋木の。さらば埋れも果てずして。亡心何に残るらん。
一セイ「浮き沈む。涙の波のうつほ舟。
地「こがれて堪へぬ。いにしへを。
シテ「忍び。はつべき。隙ぞなき。
ワキ詞「不思議やな夜も更方の浦波に。幽に浮び寄る物を。見れば聞きしに変らずして。舟の形はありながら。唯埋木の如くなるに。乗る人影もさだかならず。あら不思議の者やな。
シテ詞「不思議の者と承る其方は如何なる人やらん。もとより憂き身は埋木の。人知れぬ身とおぼしめさば。不審はよさせ給ひそとよ。
ワキ「いやこれは唯此里人の。さも不思議なる舟人の夜々来ると言ひつるに。見れば少しも違はねば。我も不審を申すなり。
シテ「此里人とは芦の屋の。灘の塩焼く蜑人の。類を何と疑ひ給ふ。
ワキ「塩焼く海人の類ならば。業をばなさで暇ありげに夜々来るは不審なり。
シテ詞「実に/\暇のある事を。疑ひ給ふも謂あり。古き歌にも芦の屋の。
ワキ「灘の塩焼き暇なみ。黄楊の小櫛はさゝず来にけり。
シテ「我も憂きには暇なみの。
ワキ「汐にさゝれて。
シテ「舟人は。
地歌。「さゝで来にけりうつほ舟。/\。現か夢か明けてこそ。みるめも。刈らぬ芦の屋に。一夜は寝て蜑人の。心の闇を弔ひ給へ。有難や旅人は。世を遁れたる御身なり。我は名のみぞ捨小舟法の力を。頼むなり法の力を頼むなり。
ワキ詞「何と見申せども更に人間とは見えず候。如何なる者ぞ名を名乗り候へ。
シテ詞「是は近衛の院の御宇に。頼政が矢先にかゝり。命を失ひし鵺と申しゝものの亡心にて候。其時の有様委しく語つて聞かせ申し候ふべし。跡を弔うて賜はり候へ。
ワキ「さては鵺の亡心にて候ふか。其時の有様委しく語り候へ。跡をば懇に弔ひ候ふべし。
地クリ「さても近衛の院の御在位の時。仁平のころほひ。主上夜な/\御悩あり。
シテサシ「有験の高僧貴僧に仰せて。大法を修せられけれども。そのしるし更になかりけり。
地「御悩は丑の刻ばかりにてありけるが。東三条の森の方より。黒雲一村立ち来つて。御殿の上におほへば必ずおびえ給ひけり。
シテ「すなはち公卿詮議あつて。
地「定めて変化の者なるべし。武士に仰せて警固あるべしとて。源平両家の兵を選ぜられける程に。頼政を選び出されたり。
クセ「頼政その時は。兵庫の頭とぞ申しける。頼みたる郎等には。猪早太。唯一人召し具したり。我が身は二重の狩衣に山鳥の尾にてはいだりける。尖矢二筋重籐の弓に取り添へて。御殿の。大床に伺候して。御悩の刻限を今や/\と待ち居たり。さる程に案の如く。黒雲一村立ち来り。御殿の上におほひたり。頼政きつと見上ぐれば。雲中に怪しき者の姿あり。
シテ「矢取つて打ちつがひ。
地「南無八幡大菩薩と。心中に祈念して。よつぴきひやうと放つ矢に。手答してはたと当る。得たりや。おうと矢叫して。落つる所を猪早太つゝと寄りてつゞけさまに。九刀ぞ刺いたりける。さて火を灯しよく見れば、頭は猿尾は蛇。足手は虎の如くにて。鳴く声鵺に似たりけり。恐ろしなんども。愚なる。形なりけり。
ロンギ地「実に隠なき世語の。その一念を翻へし。浮ぶ力となり給へ。
シテ「浮ぶべき。たより渚の浅緑。三角柏にあらばこそ。沈むは浮ぶ縁ならめ。
地「実にや他生の縁ぞとて。
シテ「時もこそあれ今宵しも。
地「なき世の人に合竹の。
シテ「棹取り直しうつほ舟。
地「乗ると見えしが。
シテ「夜の波に。
地「浮きぬ沈みぬ見えつ隠れ絶々の。幾重に聞くは鵺の声。恐ろしや凄しや。あら恐ろしや凄ましや。
中入間「。
ワキ歌、待謡「御法の声も浦波も。/\。皆実相の道広き。法を受けよと夜と共に。この御経を。読誦するこの御経を読誦する。
出端「一仏成道観見法界。草木国土悉皆成仏。
後シテ「有情非情。皆共成仏道。
ワキ「頼むべし。
シテ「頼むべしや。
地「五十二類も我同性の。涅槃に引かれて。真如の月の夜汐に浮びつゝこれまで来れり。有難や。
ワキ「不思議やな目前に来る者を見れば。面は猿足手は虎。聞きしにかはらぬ変化の姿。あら恐ろしの有様やな。
シテ「さても我悪心外道の変化となつて。仏法王法の障とならんと。王城近く遍満して。東三条の林頭に暫く飛行し。丑三ばかりの夜な/\に。御殿の上に飛び下れば。
地「すなはち御悩しきりにて。玉体を悩まして。おびえまいらせ給ふ事も我がなす業よと怒をなしゝに。思ひもよらざりし頼政が。矢先に中れば変身失せて。落々磊々と。地に倒れて。忽ちに滅せし事。思へば頼政が矢先よりは。君の。天罰を。当りけるよと今こそ思ひ知られたれ。其時。主上御感あつて。獅子王といふ御剣を。頼政に下されけるを宇治の。大臣賜はりて。階をおり給ふにをりふし郭公音づれければ。大臣とりあへず。
シテ「ほとゝぎす。名をも雲居に。上ぐるかなと。仰せられければ。
地「頼政。右の膝をついて。左の袖をひろげ月を少し目に懸けて。弓張月の。いるにまかせてと。仕り御剣を賜はり。御前を。罷り帰れば。頼政は名をあげて。我は。名を流す
うつほ舟に。押し入れられて。淀川の。よどみつ流れつ行く末の。鵜殿も同じ芦の屋の。浦わの浮洲に流れ留まつて。朽ちながらうつほ舟の。月日も見えず。暗きより暗き道にぞ入りにける。遥に照せ。山の端の。遥に照せ。山の端の月と共に。海月も入りにけり。海月と共に入りにけり。
(** JALLC TANOMOSHI project No.1 **
** 謡曲三百五十番集入力 **より
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2018.6.3 UP