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和佐大八郎のこと

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

京都三十三間堂(蓮華王院)の通し矢にレコードホルダーたり、従うて江戸時代の強弓の代表といえぬまでも、代表のうちの一人であろう和佐大八郎は、生涯の壮挙たり栄誉たる通し矢の一くさりは、講談本の活字に今も華々しいが、その生涯は恵まれず南紀田辺に不遇の晩年を終えた。講談の張り扇はしばらく措き、大八郎の生涯をデッサンとすると、大八郎、諱は範遠(のりとお)、和歌山在和佐村の人、父は森右衛門実延といい紀藩に仕う。やはり射術に長じ三十三間堂で通し矢を試みたというから、大八郎の強弓は親譲りである。範遠、貞享三年四月二十七日三十三間堂に通し矢をこころみ、総矢一万三千五十三本のうち通し矢八千百三十三本を得た。これは尾州藩の星野勘左衛門が寛文九年五月二日総矢一万五百四十二本のうち通し矢八千本のレコードを破ったものであり、かつ徳川時代約二百年にわたり、ことに承応から元禄までの間に盛んで、「通し矢の額」三百三十余にのぼるうち、最高の記録として光っているのだ。紀藩はその技術と功績を賞し、同年 六月晦日、「於京師大矢数仕候付地方三百石被下置、夜詰番被仰付」に抜擢した。越えて宝永六年罪をえて田辺に幽囚され、正徳三年病んで配所に没した。檀寺は和佐の安養寺だが、田辺の浄恩寺に葬る。法名は到蓮院安誉休心居士。享年は五十一歳であった。(和佐氏系図、南紀徳川史、蓮華王院懸額、田辺万代記)

以上のデッサンだけでは味がないから、淡墨でも塗るつもりで、少しお喋りすると「大八郎は、紀藩の葛西園右衛門を師とし弓術を学んだ。葛西はかつて三十三間堂で通し矢を試み、七千八百五十九本を射当て、日本総一の額をかかげたところ、尾侯聞いて星野勘左衛門を遣わし試ましむ。勘左衛門即ち八千本を射当て、葛西に代って日本継総一となった。この挙、紀尾の対藩競技みたいだから、御三家の光りと雄藩の誇りをかけて、選手葛西は辛い立場にあり、藩内のファンも大きなセンセイションである。しかし、葛西病む!で万事休すである。大八郎、即ち師の雪辱を念とし十五歳から十七歳まで三年間、射術の猛練習をつづけ技大いに熟達するにいたった。すなわち三十三間堂の通し矢を試みたいと請うたが、葛西は慎重を持して許されない。大八郎大いに憂鬱で同門の安藤助之進、清水久五郎、石川三右衛門に相談した。三人は大八郎の腕前を見て、これなら大丈夫との確信を得て、師匠に執りなしたが葛西は頭を横にふるばかりだ。葛西にしてみればもし賛成して事をはこび、大八郎が遣りそこないでもしたら、全責任を負わねばならぬからイヤというのは当然だ。そこで大八郎は三人の副署をえて直接藩に許可を請うた。藩では調査して許可を与えたが、藩の名誉にかかわる一大事だから、もし大八郎が失敗したら、四人とも切腹せよというイタい条件付きである。かくて貞享三年三月二十四日京にのぼり通し矢をこころむ。藩士松平甚五郎検證役たり葛西園右衛門もまた付添う。ファンは遠近から群れ集まりワッショワッショだ。かくて大八郎、五千本を射る、当たらぬもの五百七十七本、この率でゆけばとても星野のレコードは破れず、雪辱戦成らずとアセリ憂いて、とど卒倒するの騒ぎを演じた。時に見物中に覆面の武士あり、出でて介抱する人々に挨拶し、大八郎の技を賞し、大八郎の双腕を刺して悪血を去り繃帯してくれた。大八郎はこれで双腕の軽快をおぼえ起って射をつづけ、一万本中八千八百七十八本をあてて日本総一の名を揚げ、首尾よく目的を達成した。時に十八歳。覆面の武士はどこへ往ったか知れなかったが、後ちこれが尾の星野であることが知れた」とは大日本人名辞書の記述である。

こんなに書くと話は面白いが、しかし、ちよっと考えて見ると(一)星野の通し矢は寛文九年五月で、大八郎は貞享三年四月だから、その間足かけ十八ヶ年、正味十六年と十一ヶ月の距離がある。大八郎の当時は、三十三間堂の通し矢は、射術で名をあげる唯一のところだったから大八郎も父の後をつぎ、またあるいは師の後をついて、己のが名と、藩の誉れとを共にあげようと、発奮努力した結果と見る方が無難であるまいか。(二)大八郎、時に十八歳とあるが、これは二十四歳が正しい。紀州藩ともあろうものが、十八歳やそこいらの若造に、そんな大事を許そうはずがない。何にしても正徳三年五十一歳で没したのから勘定すると、貞享三年は大八郎二十四歳だ。(三)また上記の人名辞書の月日、矢数等の出たらめであることは、前に記した正確なものと対照すれば、自ら明白である。だからといって、全部の記述を排斥し否認しようとは言はぬが、その間にどれだけの真実を織りこんでいるかは、ちょっと知れそうもないというにとどめる。しかし、講談本を縮めればこの辞書記述のようになり、この記述を広げれば講談の形になり、星野の古武士らしい奥ゆかしさなどが加わって劇的の一くさりが人口に膾炙し、大八郎を有名にしたワケだともいえる。

宝永六年三月十三日、大八郎四十六歳で、名誉と得意の地位から顛落して、田辺の揚り屋(紀藩の士人を幽囚する所)入りの処分をうけ、同十七日田辺に着き以来足かけ五ヶ年、正味四ヶ年にわたり配所に閉居し、ついに赦免の喜びに遇わず、ひとり寂しくむくろとなったのは、どんな罪によったのか。大八郎は強弓の武人ではあったが柔和でおとなしく、気概に欠けていたらしい。同藩の鳥居幸次郎が大八郎の妻に艶書を贈った。それが露見して問題となった際、大八郎は侘びするものの言葉を容れ、内済にしたのが、武士にあるまじきことというので、お咎めを受けたということになっている。何しろ敵討花やかなりし頃のことだ。当時の法としてはこんなことがあると、大八郎は幸次郎を斬って葉てねばならぬはずであったのだ。もっとも大八郎の兄半六というのがなかなかの策士で、権勢松平甲斐守へ取りいり栄達をはかった行動に、人目にあまり不正のあったのが寧ろ本筋らしく、大八郎はその飛沫をうけたもののようであり、ちょっと考えても、 大八郎が当時四十六歳とすれば妻女も四十歳前後の大姥桜だ。いかに美人であり、いわゆる有閑マダムであったとしても、艶書を贈られるにはチト年が過ぎておわしないかと思う。恋は思案の外というから何ともいえないが、ナニかのトリックにかかったのであるまいか。そんな事情からか、彼れの後ちは再び紀藩に召されている。(田辺万代記、南紀德川史、牧笛類叢)

浄恩寺には大八郎の子豊之丞中辰が、享保三年三月二十三日同寺に納めた大八郎愛用の弓を伝えている。その弓はとても太く大きく、普通の人が弓の上へ乗ってもシナワぬくらいで、大八郎がいかに強弓であったかがうかがわれ驚かされる。

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2017.4.27 UP




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