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うつろ船の蛮女

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

滝沢馬琴らの兎園小説に「うつろ船の蛮女」と題して、享和三年癸亥の春二月二十二日の午の時ばかりに、常陸の国はらやどりという浜に、形、香盒のごとくにしてまるく、長さ三間あまり上は硝子障子にて松脂にて塗り、底は鉄の板がねを段々筋のごとく張りたるものへ、髪の毛赤く顔桃色なる女を乗せたるが漂着したが、「官府へ聞こえあげては雑費も大かたならぬに、かかるものをば突き流したる先例もあれば」とて再び沖へ引きだし突き流したことを記し、その乗物と蛮女の形を図として出している。このことは他の随筆にも見えているから、この文をかいた琴嶺舎の考証めいた文字は別として、実際にあったことと思われる。

「かかるものを突き流したる先例もあれば」というのを、仮りに真実とすればこれより以前にも常陸近海に同じようなものの標着したことがあったのであろう。熊野の井川と市木の境(三重県南牟婁郡)にある稚子塚は、昔若い貴げな女が小さな蓋のあるものに乗ってきて、ここに漂着し浦人に助けられて住み、この女が死んだのち葬ったところという。紀州田辺湾内の内の浦は、昔一人の婦女が漂着し助けたが、女が金銭財物を持っていたので、浦人が謀って殺し奪いとったが、のち崇りあるので小祠をたてて祀った。同浦に今も成功者の出ぬのは、これがためだと言われている。これは例の山伏を殺したとか比丘尼を殺したとかいう伝説と、あるいは交渉あり混線するものかも知れぬが、常陸に漂着した蛮女のごときはしばしばではあるまいが、否、極めて稀に行われたこととしても、常陸以外に漂着した例は絶無とは申されまい。

翁草にいう。「城州伏見仏国寺高泉和尚は黄檗山万顧寺の第五世なり。この和尚の物語に、若き時大明の地へ流船きたる。衣冠正しき人なるが素より言語通ぜされば、硯紙を出すに、日出扶桑是吾家、漂洋七日到中華、山川人物般人異、唯有寒梅一様花という詩を作れり。その時代に日本にてこの人ならんという覚えあるなり。かの人は大明にて終わられしとの物語なり」とあり。こちらからも漂着はあったのだ。漂流譚は一々例をあげれば限りがないから、これ位に止めておく。

「日本橋下の水はテームス河の水と相通ず」とは明治時代に言い古された言葉だが、これを思想や政治や経済にのみ考えて、お足元の事物には案外注意せぬらしいが、日本の太平洋岸は潮流の関係によって、少くとも南洋および支那方面とかなり交渉があるらしい。単に紀州のみの例に見ても、日高郡の沿海地方には榕樹が少くない。またタイキンギクの自然生がある。また日高郡の黒嶋、西牟婁郡の田辺湾の神嶋および江住の海岸には彎珠が生えてあり、周参見湾の稲積嶋にはオオタニワタリが本州唯一の自生地として繁茂している。これらは皆種子なり胞子なりが潮流によって南洋その他から運ばれ、ここに打ちあげられて根をおろしたものである。「み態野の浦の浜ゆう」として知らるる浜ゆうも、もとは南の方から種子が漂うてきたのであった。単に紀州だけではなく、有名な青嶋をはじめ九州、四国などにも以上のような例は甚だ多いであろう。

植物のみではない。現に本年一月には紀州田辺で瑇瑁(タイマイ)を生捕りにした。瑇瑁すなはち鼈甲亀のこ とだが、山愛の旧記には元禄八年二月利右衛門という者、瑇瑁亀を南部浦で獲たことを記しその図まで描いたのが存する。漁夫の話によると鼈甲亀は珍らしくなく、しばしば見るところだという。 さらに田辺町役場には独木舟を二隻保存しているが、これは明治四十年ころ同町江川浦の漁船が田辺沖で漂流しているを発見、拾うて帰り届けいでたが、勿論持主は分らず、拾得者も不要であるというので、最初は小学校の参考品となり、保管の場所に困って役場へ廻ったのである。これは南洋から黒潮の流れに乗って、ゆらりゆらりとやってきたものらしい。

秦の徐福が不老不死の霊薬を求めて、吾が蓬莱の国に渡来したとの伝説は有名で、僧絶海と明太祖との唱和の詩があり、紀州藩は新宮へ徐福の墓を立て、百井塘雨(笈埃随筆)橋南谿(西遊記)な どをはじめ、徐福が熊野へ着いたとの話を伝えるものはなかなか多い。しかしここにはその詮索は措く。支那と熊野との水路も注意すべきで、佐藤成裕の中陵漫録に「余、かつて聞く、閩(びん)の地を発して南に来たり、薩州の天妣山を望んで左に折入る時は薩州の諸山を右にして遂に長崎に至る、天 曇りて妣を失う時は直路にて土州の沖を過ぎて紀州の熊野浦に来たる、是を過れば房州に至る」とある。昔の大まかな航海はそんな工合であったろうと思う。徳川時代の支那の遭難船でわが国に漂 着したものの経路などに見ても、それがうなづかれる。

日本は長く鎖国を守った。しかし海は、潮流は、自然は、昔も今のごとく自由であり奔放であった。その自由であり奔放だった海が、わが沿岸に与えた事物について、親切な注意と観察が望ましい。因みに附記するが、南紀の日置の人々が明治二十年代に既にカロリシ群嶋に貿易を試みたのも、近年紀州に二十馬力内外の発動機据付船で南洋やメキシコに乗り切ろうとするもののあるのも、南紀州が海外出稼者の多いのを以て知らるるのも、要は朝にタに大洋に潮流に親しむ所から生まれたので、植物の種子などばかりでなく人間も自由に奔放に、潮流に乗って海の向うに往くべく、自然が気をそそるらしい。  (昭和六年四月、河と海一巻四号、後ち補正)

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2017.4.26 UP




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