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妙法山の一つ鐘

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

阿弥陀寺の鐘

昭和元年十二月二十六日、即ち改元の第二日に七十五歳を以て没した亡父は長い間熊野各地を行商し地理、事情に通じていたが、生前しばしば語ったは、ある年の秋の末、平之亟という年長の同商とともに妙法山にのぼり、日暮れて山を降りるを得ず、住僧に請うて寺に一泊した。かねて妙法山は生前同山に参詣せざりし亡者が死後必らず参詣し一つ鐘を撞くと聞いていたが、その事を思い出し床につくも眠られず、夜に入りては肌寒く、風さえ出たらしく戸をならすさえ淋しく感ずるに、夜半に、二回ばかり一つ鐘の鳴るを聞き、終夜眠らずして夜を明かした。同伴の平之亟は一向宗の篤信者で、行商中も毎夜旅宿で念仏読経を欠かさず、正直で小心で知られた男であったが、臥床の中で終夜念仏を唱へつづけたのは生涯忘れられぬ印象だ、と。よほど気持ちが悪かったらしい。妙法山は那智山中の一峰で那智から二十余丁のぼったところに真言宗阿弥陀寺ありこの寺を妙法山と通称する。由緒などは後ちに書く通りだが、明治年代までは交通不便の山の上のこととて参拝者は少く住持も凡僧であったらしく、寺男と二人くらいで貧しく暮していたものという。

昭和七年に登山自動車が開通したので、次第に詣るものが増加するだろう。弘法大師の開基と伝え遺骨を納むることは高野山に準じ元享釈書に法燈国師再興住山のことを載せているから可なり古くからある寺たるは明かである。熊野地方では、一般生前に妙法山へ参詣せなかった者は、死後幽魂必らずこの寺に参詣すといい、参詣すれば必らず一つ鐘を撞くといい、従うて生ける人は一つ鐘を撞くを忌む。麓の茶屋で憩うた道者が忽ち姿を失いそれが亡者であったと知れたなど、いろいろ不思議なことも話されて居り、亡父の話では住持は一つ鐘は殆んど毎夜のごとく聞くというたといい、その一つ鐘の音は微かに鳴るといい、亡父もこれを聞いたというが、それは寂しい山頂の孤寺で、夜半の風に撞木が揺れることもあろうし、風の作用で微かな響を伝えることもあろう、それを心して聞けば一つ鐘と思われるのかも知れぬが。

阿弥陀寺の山門

紀伊続風土記には世俗に亡者の熊野参りという事を伝えて人死する時は幽魂必す当山に参詣すという、いと怪しき事など眼前に見し人もあり、こはいずれの頃よりいい始めし事にや、古きものにも見えざれど世の人古くいい伝えたり」とて、霊異記の永興禅師の条、禅師の死して後ち三年、なお舌のみ腐らずして法華経をよめることを引き、この一禅師の骨を「常山に収め山を妙法山というなどその縁にやあらん」とあるが、こはなお考うべしであろうか。

南方先生は妙法山のこと、西国三十三所名所図会に大宝三年春唐の天豪山蓮叙大士この山に上り法花懺法を行う、七八年住で西天に帰る迦葉の変身という。それより九十一年を経て大同元年弘法大師これに上り三七日護摩密法を修す、亡霊日夜参詣絶えず、大師自から一口の鐘を建立し「空海の教えの道は一つ鐘、弥陀の浄土へ共に南無阿弥」それよりこの熊野路の難所を修行し「熊野路を物うき旅と思うなよ、死出の山路で思ひ知らせん」と示す、かくて後世菩提の為とて自ら一刀三礼の弥陀像を作り山の中段に庵を結び阿弥陀寺という、弘仁年中応照上人奏聞して堂塔を作るとあることを教えられた。これらの説から亡者詣での説が出てきたものか。

▽南方先生のお話—
妙法山頂近き所をシキミ山といい樒夥しく生たり、亡霊が自ら墓に上げたる樒の枝をそこの土にさしたるが根を下すなどいう。因て樒山最勝峯と号す、亡霊が妙法山に詣るに茶店で食事することあり。但し亡霊に限って食事後茶を飲むことなしという。故に熊野の人は食後茶を飲まぬを忌んだものと聞いた。死出の山路という登り下りの路熊笹茂りて甚ださびし、いわゆる鳥の声さえ聞かぬ境なり、そこに右の歌かきたる札ありし。西洋にもエルサレムの楽土に至る途中ジョールダンの道を苦しみ思うなかれ、死んだら思い知るはずという唄あり、似た事なり。

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2016.8.6 UP




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