磁石の笑話
雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』
紀藩の儒崖順輔、諱は弘敦、字は剛先、通称順輔、後ち権兵衛と改む。かねて画を善くし熊野(ゆや)老人の名を以て著称さる。紀州海部郡雑賀の人、同国新宮に移り初め茶問屋たり雑賀屋次右衛門と称した。新宮の宇井愷翁(東涯門)に学び後ち大阪に出で丹羽嘯堂の門に遊び次いて越前に在り、 後ち和歌山に帰り儒を以て紀藩に仕え、独礼小普請格に進み文化十年八十歳で没したが生涯多芸 逸を以て知られた。
順輔、丹羽塾にあるの日、嘯堂は熊野に大きな磁石があるというが誠かと問う、順輔答えて曰く。「然り誠にこれ有り、それは請川村の静川という所の奥なり、凡そ鉄器を持って大磁石の前を通行すれば人諸共に吸い寄せられ農具の鋼鉄など持って往来するものは遥かに道を狂げて通り農夫は大に困難せり。ある夕暮、一人の農夫が牛を牽いて来りしを、かの大磁石は黒きものなれば大きな鉄器と思ひけん、その前に来りし時かの牛をはたと吸付けた。農夫は肝を潰し鍬を以てはずさんとすれば鍬引付き、鋤を以てはずさんとすれば鋤引付き、如何ともする様なかりければ、請川村祐川寺の和尚に歎き訴えた。和尚乃ちかの磁石の前に立ち、払子を打ちふり高らかに唱えて曰く。呼爾磁石、祇聴吾言、夫以爾惟吸鉄者、今奈何吸牛、雖曰逮黃昏、不辨有情與非情、何以謂磁石之有精靈歟、速還牛本主、不然挙鉄如意、打砕爾、俾無復有精霊矣、喝、急々如律令と唱えしかば、奇なる哉妙なる哉、この牛ガバと起き立ち鋤鍬までもばらばらと離れて落ちたりければ、農夫喜び斜ならず、祐川和尚には数々の布施をなし、家には燈明を点じ神酒を献じて牛の蘇生を祝した。かの磁石は牛と鉄とを見誤りし事を深く恥とや思いけん、これより後は真の鉄器を持て通るとも又もや牛奴が誑すのかと思って、 敢えて吸わざるに至り、農夫も安穏に往来する事となりかの磁石はただの一大岩石となって街道を睥睨して居るのみ」であると語ると嘯堂初め門弟一同抱腹絶倒したと愷翁の子菊珠の旧事談に書いている。
私はこの話は順輔の才気を物語る即興的戯談として面白いと思うだけ何も考えなかった。事実は順輔としても一場の戯談だったのだろう。所が南方先生のお話を承るとこの話で注意すべきは磁石に霊ありとしたことだという。先生は狂言の「磁石」にも「某は唐と日本の境にちくらが沖という所に、磁石山という山があるその山の磁石の精ぢゃ、夜前鳥目を呑うだれば、 殊の外喉が詰ってわるい云々」とあり、磁石に精ありと古くから信ぜられたこと、且つ旧藩時代に磁石は稀有であり珍重され、多くは紙に包んだままで扱い、その正体を見ること少く、鉄類を吸いつけるを見て、霊ありとした例を語られ、この順輔の戯談も偶ま磁石に霊ありとした一例話だと教えられた。
△南方先生のお話ーー
磁石という狂言は続狂言記巻五に出づ。中古欧州に広く読まれて説教師の説教の種になったフィシオログス(生物譚)は動植物や鉱物の話を述べ、それを耶蘇教義にこじつけたものなり。その中にも磁石霊怪な事を色々述べある。
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2017.4.11 UP