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紀州の「野中の清水」

雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』

野中の清水

熊野の近野村野中に「野中の清水」あり。野中の一方杉の少し下モ手、曹洞宗養命寺の少し上ミ手に当り昭和の初めに改修された県道に沿うている。野中は一帯に南にうけの傾斜地で山の中腹に畑地を開懇した村だが、「野中の清水」は傾斜地のヒダになったところで清い美しい水が滾々と多量に湧いているをいう。

村は山腹で水の湧くところが乏しく、この清水は附近数十戸の生命の水で、飲料は言うまでもなく、洗濯物などすべてこの水によって居り、大正以後には自家用の電燈をもこの余水で発電している向きもある位だ。水口には何さまか知らぬが、石刻の仏像を祀って居り、村人の清水を大切にすることは非常で、お寺を清水山と号し養命寺というのも、この清水に因んだことは推察に難くない。

元禄に書いた紀藩児玉氏の紀南郷導記に、既に『右手谷に松四五本生る、その側に野中の清水あり、在所の用水とするなり」とある。昭和改修までの街道は、一方杉に沿ひ清水の上ミ手にあったから、「谷に」と書いているのである。次いで蕉門十哲の服部嵐雪が寛永二年五、六月の交、門下の百里、朝叟、甫盛、全阿と一行五人で熊野に遊んだ際

住かねて道まで出るか山清水

と吟じたことは、その記行『その浜ゆふ、』句集『玄峯集』に出ている。『紀伊続風土記』には「○野中の清水、継桜より少し南にあり、この地野中というに因りて、古の野中の清水ぬるけれどもとの心をしる人ぞくむ、といふ古今集の歌を引いて名所とせしならん」とある。「野中の清水」として名所となったのは、いつ頃からのことかは知るよしないが、既に元禄に名どころであった事、 寛永には俳人の感興に乗り、嘉永には風土記に載せられるまでになっていたことだけは知れる。

「野中の清水」を歌枕とするのは古今和歌集(巻第十七雑歌上)にある読人しらずの

いにしへの野中の清水ぬるけれどもとの心をしる人ぞくむ

に因んだことは言うまでも無い。『八代集抄古今集』にいう。「この清水は播州印南野にあり、昔はめでたき水にてありけるが、末にはわるく成りて人もすさめぬを、むかし聞き伝えたるものゝ、のめる事をよめるなり。能因歌枕には野中の清水とはもとの妻をいうといへり。古の野中の清水み るからにさしぐむものはなみだなりけり。又もとめに帰り住むと聞きて、『わかためにいとゝ浅くや成りぬらん、野中の清水ふかさまされば。』これらみな古今の歌を本としてよめると見ゆ」 とあり。『今古序註』には

開化天皇の御宇とかや、男女相具して播摩国印南野を過ぐるに目出度き灑水ありけり、男女ともにこの水をむすびてのみけり、さて家に至り年月を経る程に世の常の習ひ女すてられけり、本の道を行くほどに、ありし野中の灑水を思出て立よりてむすぶに、灑水の習ひ夏は冷く冬はぬるき也、その水夏にかはれる事を見て世の中のためし、かはり行くさまを思ひ知りて怨みの心なぐさみけり、さてこの歌をよみにける、さてこそ本の心を知る人ぞくむとは云けん。

とあり、『雑和集』のいうところも略ぼ同じく、『倭訓栞』にも印南野にありといへりとし、『播州名所図会』には野中の清水(清水村より二十四五丁東北野中に森あり、林の中三間許琵琶の形に残りて今も湧き出て清水川へ流れ海に達す)これ播州十水の第一にして世々これを賞す」とある。だから本家はどうも播州らしい。

しかし、野中の清水は必らずしも播州に限らぬとの説も昔からある。『門田の早苗』には「野中の清水は播摩の国いなみのにありといへど、いづこの野にもいふべしや」とあり。『日本歌学全書』の標註には「野中の清水はさまざまに言へどいづくにてもただ古き清水をいへる也、されど元の妻をいへりといふ説によりてよめる歌数首見えたり」とある。これは確かに一見識だ。現に野中の清水は甲斐にもあり、武蔵にもあり、而して紀州のここの野中の清水は播州に次いで有名であるは、徳川期の随筆にも見るところだ。

(昭和六年十月、紀南の温泉)

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2016.2.21 UP




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