熊野の忌詞
雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』
私には未見の書であるが、山田常典の随筆井底雑記の一節に、左の記述のあることを雑誌熊野研究(大正十五年五月、一号)の抄出にあるので知り得た。
熊野遊覧記という書に云、仏ヲ左登利(サトリ)ト云、経ヲ阿那巻(アナマキ)ト云、寺ヲ波保宇(ハホウ)ト云、堂ヲ波知□(ハチス)ト云、香爐ヲ塩竈ト云、念珠ヲ木(キ)ノ種(タネ)ト云、僧ヲ波曾利ト云、尼ヲ女波曾利、コレハ常ニアゲ用ル、血ヲ阿世(アセ)ト云、啼ヲ加武須留(カムスル)、寝ヲ座(ザ)ス、怒ヲ奈多牟(ナダム)ト云、打擲ヲ直須(ナオス)ト云、病ヲ久毛利(クモリ)ト云、大小便ヲ己利立スル、コレハ折ニフレテアゲ用ル、死ヲ為金(カネトナル)、葬ヲ於久流(オクル)、卒都婆ヲ角木(カクノキ)、墓ヲ古計牟志(コケムシ)、コレハ其事ニフレテアゲ用ヒル、火ヲ於美(オミ)、米ヲ波羅々(ハララ)、是ハ託宣ノ御義ニテ常々参宮ニ非ズトモ、熊野ヲ念スル時々ニハ、アゲ用べキ者、凡三十音ニミチタル由記シハムベレドモ、悉クハ略之云々。今按にこの中に死を金になるといえること、無住法師が雑談抄にも熊野ニテハ死ルヲ金ニチルトイエリといえり。又沙石集に云、熊野の道にては塩を百味と名けいうよしいえり。是は忌詞にあらじ。さて今世には、かようの忌詞など用るさまにもみえず大かたかかる古事なれども、皆失せはて行く世の末こそあさましけれ。
まず熊野巡覧記はいつ頃、誰れの著で、どんな内容のものか、それを知りたいと思うたので、熊野研究の編者田原隈山老にお尋ねしたところ、これは現在では全く見ぬ本で、著者も、内容も、いっごろのものかも一切分らぬ。限山老も知らぬばかりか、熊野史実の権威と知られた小野芳彦翁も知らぬと言われていたとは、隈山老からの御手紙である。須藤玄龍、後ちの玉川漫斎の熊野巡覧記は、本の名は同じであるが別のものである。
しかしこの忌詞だけでも抄出してくれていたのは難有い。忌詞は延喜斎宮式に内七言、外七言などあり嬉遊笑覧にもそれを引いているが元来忌詞を用いたのは伊勢神宮と京の加茂の宮と出雲の大社と、以上三社だけであると言はれているのであるが、熊野でもこれを用いられたということを知って、吾らは熊野人としての感概に打れる、それは熊野三社が伊勢、加茂、出雲とともに忌詞を用いたということはやがて以上の三社と熊野が等しい勢力—又は一種の信仰のあったことを思わせるものであるまいかという点に注意したいからだ。常典大人は嗟嘆ばかりしていられるが、吾らはモ少しこれについて調べた上何物かを掴みたい気がする。
因みに常典大人は伊予の吉田の人、国学をもって新宮侯水野忠央に仕え、丹鶴叢書の編纂に心血をそそいだが、忠央侯が政界に失脚して藩地に帰臥する際、丹鶴叢書中止の悲痛を抱いて、熊野に侯に従うた不遇の学徒で、井の底のような小天地に、逍遥の筆をやったのが井底雑記で、上下二冊あり未刊のままと聞く。
(追記)忌詞は一般に用いられるのも多い。仮令ば元日の雨をオサガリ、門松を切るのをハヤス、
嬰児の臍の緒を切るのをツグ、髪をそるのをソグ、花柳界でお茶をプブまたはオデバチ、硯箱をアタリバコ、塩のことをナミノハナなどいひ、婚礼式にサル、モドル、カへル等の詞を忌み狂言には梨の実をアリノミというてみるなどはその例で、昔の武士はこの城を食うに通じるとて鰶(このしろ)を食わなかったともいう。
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2016.1.13 UP