熊野三山貸付所のこと
雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』
中山太郎氏の日本巫女史に『倭訓栞に「熊野比丘尼というは、紀州那智に住んで山伏を夫とし諸国を修行せしが、何時しか歌曲を業とし拍枕をなして謡うことを歌比丘尼と云い遊女と伍をなすの徒多く出来れるを統べて、その歳供を受けて一山富めり、この淫を売るの比丘尼は一種にして縣神子とひとしきもおかし」とある如く、熊野は尼形売女の大本山としてこれら多数の比丘尼を統轄して収入を計り為めに一山富むほどの繁昌を致したのである』(日本巫女史 五〇六頁)と言われ、熊野三山貸付のことを註記されている。
熊野が尼形売女の大本山であったか、それによって一山富むほどに繁昌したかはここには措く。唯態野三山の貸付は熊野比丘尼とは関係なく、本宮社家玉置縫殿の試みた事業だ。享保二十一年将軍吉宗態野三山修理料として金二千両を寄附し、紀州藩に該寄附金の保管と利殖を命じ、その利息を以て修理に充てしめ、後ち又日本国中綜勧化の御免あり。吉宗は紀州から入って将軍となり、所請享保時代を打出した英主だ。
紀州にあっても社寺を保護したが大樹となった後も紀州を忘れず、この三山寄附金の如きも保護の現われだ。しかし修理は尚お充分ならず、安永の頃大破するものあるに至り、諸国に勧財したが充分ならす。文化に至り又復大破に及んだ。時に本宮の社家に玉置縫殿あり、才智勝謄略を兼ね備え雄心磊々だ。紀州藩主治宝(はるとみ)に請うて富籤の允許を受け、京、大阪にてこれを興行した。
富籤は当時最も流行したものでその利潤はかなり巨額に上った。縫殿はこの成功に満足せず、治宝の権臣山中大輔(筑後守)、宇佐美源五郎、伊達藤次郎等に親近し、吉宗の寄附金を基礎としこれに富籤権化等の金を併せ、更に各方面の預金をも得てこれを各藩その他に貸付け、全国的の金融業を営み以て三山修理の費を得んと図った。否、三山修理の名によって大事業を試みんとした。
当時の藩主治宝は晩年従一位に□叙され一位公を以て称せられた方で、寛政元年紀伊藩主となり文政七年致仕したが、次ぎの斉順(なりゆき)、斉彊(なりかつ)、慶福(よしとみ)の三代に亘り嘉永五年即ち薨去の前年まで紀藩の実権を執った、その周囲にあった山中等の権臣は藩政を左右にしたのだ。縫殿はそれらの人々に取り入り、治宝によって幕府に出願しその允許を得た。
最初は吉宗寄附金、勧化金、富籤益金等の積立一万五千両を基本とし、これに諸方よりの差加金八万五千両を加え都合十万両まで貸付業を行うこととなし、文政十一年江戸芝の紀藩邸に事務所を設け、万石以上の大名並に社寺町人等に貸付を行うた、芝三山貸付所というがこれだ。藩から頭取、元締、手代を置いて事務を管理し次いて京都、奈良、堺、大阪等に出張所を設け漸次業務を拡張したが諸侯これを便とし続々借入を請うに至った。
何分将軍寄附金を基本とするため、債務者が違約すれば寺社奉行に訴えて裁許を受け、借金先取りの権あるを以て損失の憂少く、信用頻ぶる厚かった為め差加金即ち預金も多く、確実なる一大金融機関となった。而して縫殿はその頭取、総裁たる実権を握り、江戸に往来するに東海道の道中は、十万石の大名にも比すべき羽振りを示し、和歌山に宏荘華麗の邸宅を営み、大浴槽に白砂糖を混じたる湯を沸して入浴し、京の名妓二十余名を呼び寄せて豪遊するなど、豪奢放逸の生活をしたという。
しかし縫殿は藩老水野忠央(土佐守)が藩主慶福、後の将軍家茂を擁して、嘉永五年一位公側の権臣を斥けた際、貶□せられて新宮に幽囚され、文久元年赦に遭うて本宮に帰り同年七十六歳を以て本宮に没したが、貸付所は忠央等の手にて経営せられ、安政二年には貸付金額を無制限とし、遂に貸付元金四十四万二千八百二十四両二朱と永百六十二文七分、この利二十一万二千六百四十八両と永百四十七文八分。預り金は元金二十六万八千六百四十両二歩三朱と百三十六文二分、この利二万九千九百十五両と永三百二十八文九分(明治四年十一月調査)に上り後ち藩はこれを直轄事業とし独立の理財の一局としたが藩の財政を益したこと非常だった。
ところが維新の変乱に遭い諸藩への貸付金延滞不納となり遂に貸し倒れとなって惨憺たる結末を告げた。中山氏の言わるる如く三山貸付所は江戸時代の金融機関として屈指のものであり、玉置縫殿の名は文政、天保年代に著名だったのである。
さて語は元へ戻るが、前記の社殿の大破云々から推すと熊野比丘尼は三山に附属した社家、修験輩と交渉あったが所請歳供は社家、修験等の手に帰し神社の修理等には廻らなかったものらしい。(昭和六年六月、民俗学三巻六号)
△南方先生のお話——
中山氏の説はホンの推測也、比丘尼と貸付金のことに何の関係なし。予、明治三十四年より三十七年まで那智に僑居せり、その間だ、三度坊主三度比丘など称え大阪辺より年に三度(一度は旧暦の大晦日)那智へ参り旅宿に一度宿りて去れり、都会の多くの人に頼まれ一身でその代参を悉く兼たものらしい。この外にに比丘尼と熊野との関係の痕跡らしきものは一事も存ぜさりしと記憶す、その坊主や比丘尼は実に凡庸なる者なりし。
玉置縫殿は声至って大きく昔の足利忠綱を想起するほどなりしと、又、口を開て拳を全く含み了りしという、中里介山の大菩薩峠に我慢和尚とかも左様にせしとあり、どこかに縫殿同様の伝説付きの人ありしに拠るか。
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2016.1.7 UP