熊野三山と奧羽
雑賀貞次郎『南紀熊野の説話』
暁鐘成(木村明啓、万延元年歿、年六十八)の『西国三十三所図会』の紀州田辺の項に『山祝の図』を掲げ、奥羽から熊野三山に参拝する人々は、三山を済ませて田辺へ来ると、宿舎で山祝いと称し無事参拝の祝宴を催し、且つ祝いの餅を搗き田辺の弁慶松の松の葉を採り共に土産として郷里へ持ち帰るを例としたことを記述している。同図会は和本十冊より成り伊勢神宮を巻頭として三十三所巡拝の道中の名所旧蹟史談を書いたもので、今日から見てもかなり纏まったものだ。
山祝いの図はここに掲げた通りであるが図にある山家屋源七という宿屋は通称山源といい田辺町大字栄町の西寄り(元は下長町という)の南側にあった旅館で当時は旅館街だった栄町の同業者中でも第一流の伍にあった。当時の山家屋主人は山祝の図に自家の屋号あるを喜び図絵の第二版を数十部購入し知人に配布して自慢としたという。その次ぎの主人は明治二三十年の交花蝶と戯号して柳句の選者たり、「こけかけた柱、娘が抱き起し」の吟あったが花蝶の娘に二美人あり所謂艶笑芸術を以て同家の衰運を支えたことが今にこの句とともに地方川柳家の話柄となっている。
関話は休題として、徳川時代には奥羽から熊野に参拝する者多く、男子は生涯に一度以上は必らず参拝すべきものとされ、春秋の候、団体旅行で陸続として来った。その参拝者は先ず伊勢に大廟を拝し新宮、那智を経て本宮より田辺に出でて山祝いをなし、和歌山、高野を経て吉野、奈良に出で京都に向うか、和歌山より大阪を経て京都に出るかした。この風習は、明治二十五六年頃まで盛んで、私なども幼時田辺でこの団体参拝者を屢ば見受け地方の人々がこれを指して『関東べイ』と呼ぶを聞き、かつ山祝いの餅搗きを見物したことをおほろげながら記憶している。日清戰役後漸次衰え間もなく団参の姿を見受けずなったが、田辺の尾崎象三郎君の話に、君が大正初年頃大阪商船扱店員にして田辺柑橘業組合長を兼ね早春田辺付近に生産する金柑を田辺港埠頭から汽船に積み込む際、関東べイ来りて金柑を珍らしがり屑物の棄てたるを拾い珍重するを見て金柑の上品一箱を一行に贈ったことがあると。
又昭和四、五年に数回本宮に行き、同地方の有力者諸君に聞く所によると、今も奥羽より参拝するもの一ヶ年四五百人に上るという。奥羽に於ける熊野参拝の風は今も全く滅びてはいないのだ。熊野三社関係の有志は往昔の盛況を復興したいとの希望を抱き宣伝その他に努めねばならぬというている。熊野坐神社由緒略記(昭和五年五月十九日同社にて受く、 同社々務所編)には一ヶ年の参詣者は約五万人内外なるべし、普く全国的に崇敬せらるれども大阪京都名古屋方面及び関東奥羽地方最も多く四国、中国、九州の順なるが如しとある。近畿は近いから参拝者数主位を占むるは当然だが関東、奥羽は昔ほど盛でなくともセメて現在の十倍、二十倍の参拝者があってもよい筈だ。
さて奥羽と熊野との関係は何に原因するか。熊野では普通奥州秀衡の熊野信仰に始まるといい、又藤原実方の関係によるといい、羽黒月山と熊野との関係によるともいう。先ず秀衡については本宮と田辺との間(中辺路という、古の熊野街道)の栗栖川村字滝尻に滝尻王子あり、紀南郷導記に言う。『滝尻五体王子は往昔秀衡の室者後ろ岩窟にて臨産のせつ祈願し母子安全たり王子に誓願しこの子を穴に棄て置三山に詣で帰路にこれをみるに狐狼守護り聊かも恙無し故に七堂伽藍を建立し玉い坊舎七箇寺有しと云、今は小社有るばかり、秀衡納物紺紙金泥の法花経一部大般若経一部太刀長短三腰鎧三領(正製三歳嬰児着用程也云々)弓矢(以鷦鷯羽作之也云々)翁の面、鏡、□等籠置れしといえども天正十三年乙西の兵乱の頃坊舎破壊納物も紛失すという、今は長九寸程の小太刀一腰ある也』。この小太刀は今も同社に保存しあり。ここに掲ぐる写真がそれだ(鈴と矢の根も同社の社宝、鈴は古いもの也)
鈴
滝尻王子社後の岩窟は今は乳岩という、神社から一町程の山上にあり、高さ三尺許り、長さ一間許り、深さ一間半許の岩窟にて通り抜けらるる空洞、広さ三畳敷ばかりあり。付近の住民は乳なき時この岩窟に祈れば験ありといい参拝祈願するもの絶えず、但し神社より乳岩へは道路を設けず、そは祈願する婦人は案内者なく他に道を問はずして乳岩を一人にて探し往きて祈らねば験なしと信ぜられているためである。乳岩に乳を祈るには神酒を供う。
又同じ中辺路の近野村大字野中には秀衡継桜あり、紀南郷導記に言う。『在所はずれに王子の小社有、この社の前に名木の桜接て有、古木はかれてなかりしを前君の厳命に因って代りに山桜を植たり今大木となれり、接桜は昔秀衡夫婦参山の時剣の山(雑賀云、滝尻王子を剣の山ともいう)の窟にして出産せしその子をそこに捨置参山すここに至って観初に桜を手折て戯に曰く産所の子可死はこの桜もかるべし神明仏陀の応護有てもし命あらば桜も枯まじと云て側の異木にさして行過す。下向道に成てここにまふて来りしに花香盛の如し即かの窟に行て見るに幼子は狼狐の為にも侵されず還て服仕せられて肥太れり夫婦喜で奥州に具して下しと言伝へたり』とある。郷導記は元禄の末紀藩兒玉庄左衛門尉の撰した書、桜は藩主の植継いだものである事は明かだがその以前にも桜樹があったのであらう、
佐々木貞高の閑窓瑣談後篇に『紀州野中村に秀衡の母桜という名木あり、奥州の旅客は何れもこの桜を尋ね来るという、その由来は詳しく知れず、高サ八九間の木なり』とありて阿部氏の探薬記に しるしたる由付記している。徳川時代にはかなり有名な木だったもののようだ。藩主の植え継いた木は枯れて更に植え継ぎ明治年間にも植え継いた。現在のは秀衡二代の桜と称しているが実は二代でなく何代目の木か知れない。而して現今村の人々の間には野中村養命寺境内の桜が大きいので、それを秀衡桜としようとの議もあるが異議あって決しないと聞く。
奥州に大勢力あった藤原秀衡の熊野信仰が岩窟にて子(和泉三郎なりという)を産み狐、狼に護られたという霊験談や継桜の奇瑞談さえ生れたほどで、それらが奥州人の態野信仰を篤くしたか或は何等かの機縁で秀衛の時代にそれらの伝説を生じるほど奥州と熊野との交渉があったのであろうかというのも一つの考え方だ。
次ぎに藤原実方の関係をいうと那智の社僧米良実方院の系図によれば実方の子泰救父卒去の後那智に来り実方院を草創し、その裔態野別当となるとあり。熊野別当は三山の実権を占め紀南一常に勢力を張り源平戦に湛増あり承久の乱まで勢力を維持しその子孫熊野各地に拠り後ち社僧、修験となったもの甚だ多い。この実方と那智との関係が奥羽と熊野との縁故を引くものであるまいかとの説も亦一つの考え方だ、又態野の山伏は羽黒、月山に修行せねばならぬとし、奥羽の山伏は熊野三山を修行せねばならぬとしたことも、両地方を結ぶもの、殊に信仰に深い関係ありはせぬかというのも一つの考え方だ。
しかし実方の子泰救が那智に来っただけではかかる信仰は起るまい。秀衛の態々奥州より熊野へ詣でたを見ればその頃既に奥州と熊野との信仰に繋りがあったのであるまいか。山伏が互ひに両地を修行したのは何に因縁するかは寡間未だ知るを得ぬが奥州に熊野信仰が盛んになった後ち修験道の信仰を維持するにそれが役立ったから生れたのではあるまいか。思うに実方、秀衡等の縁故もあり、熊野の社僧、比丘尼、社家など諸国勧進に際し奥羽の地に於てそれらの縁故を宣伝し且つ奥羽に熊野社領多かりし等の関係から奥羽に熊野参拝の風が起ったものではあるまいか。尚ほ考えたい。
△南方先生のお話——
奥羽の輩本宮に詣で旅宿で数尺長い大餅を搗き本宮に供えたとは須川寛得氏の話也(須川氏は本宮に近い請川村の出身、田辺に歯科医たり)
山源の句、予親しく聞しもの『悪日は柱ばかりを立てておき』
明治三十七年十月初め予東牟婁郡小口の渡しを渡りし。河原者多く、老婆船を渡す、この者いう、昔しは熊野道者ここを繁く通りし故金を拾わんと欲せば渡し場へ行けと云しなり、今はいとさびれたり。吾等この近所の小屋にすみ少々の農作を営み年々米四升とかもらい交代でかく船を渡すなりと云し、予等よりも銭とりしか記憶せず。
(追記)。田辺の歯科医福本清一郎君は鯨洋、夫人は小蓑女といい共にホトトギス派の俳人であるが、昭和八年夏句会の席上で聞く、夫人の実家は本宮の旅館で、幼少のころ奥州人の本宮にきたり餅をつくを見、また今も実家に樫の杵と臼を伝えあり、
臼は石臼で奥羽人は餅をつくに糯米の蒸したのを臼に入れ、しばらく杵にて搗きたる後、長さ七八尺、径一寸ばかりの樫の木の丸き棒を各自一本づつ持ちて、臼の中の餅米をこれにて捏ねて餅とする。これを捏ねる間、唄をうたうを例としたが、この歌詞は知らぬ、搗いた餅は重ねもちとして本宮の宮へお供へしたと。
又、昭和八年九月大阪毎日新聞の和歌山版に本宮の主典だった玉置琢氏の未亡人けいさ んは、本宮で有名な二階堂家の出だが、その話に昔は奥州人が本宮へ参拝にきて宿坊につくと 五尺あまりの樫の棒で一人一升当りの餅をつき餅の中へ銭を入れて宿の二階から撤くのが恒例だったという話、および同地榎本弁一氏が奥州人の本宮で餅をつく例はしは明治二十七八年頃になくなった、樫の棒は私の家にもあると語ったことが出ている。昭和八年小蓑女はまだ三十歳台、けい姿さんは八十三歳、榎本氏は五十歳に近い人だ、けい婆さんは幼少のころ即ち藩末のころのこと、小蓑女も幼少の明治の末ごろに親しく見た記憶であろう。明治三十年ころ、田辺で山祝をしていたのを見たのを、私も微かながら記憶しているから、明治三十四五年ころまで行はれたかと思う。
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2015.12.27 UP