残花一輪
那須晴次『伝説の熊野』
平家にあらずんば人にあらずと豪語したのも槿花一朝の夢、さすがの平家も壇の浦の藻屑と消え果てしまった。その翌年の事であった。落人と思われるやさしい都の女はこの田辺の村落に流れて来た。
時は長月折しも月は中天に輝き、どこからともなく笛の音は冴えて聞えていた。なに知らず彼女は家を出た。冴えた月の光りは彼女の顔を美しく照らして、虫の音もかすかに薄命をかこつ哀しき調べのようである。はらはらと女の目からは露の涙が月の光になめらに光って頬をすべりおちるのであった。深い思い出に耽っていた彼女はいやが上に暗い世界へ引入れられるようでした。ああと うとう平家は滅亡した。一世二世までもと夫婦の契をした夫の行方は今に知れないのだ。
彼女は都に於て夫佐久磨土佐之守盛繁が熊野に落武士となっている事を耳にして、かよわい女の身ながら都より田辺まで恋しい人に会合んが為に、なれぬ旅路をはるばるやって来たのであった。残花一輪彼女の今の身ほど薄命に呪われたものはありませんでした。
神よ平氏にばかりさほどつれなくなどあたり給うのか、のろわしいこの世よ。
折しもそこを通りかつたのは郷士櫻井正之助であった。すすきの間より月のあかりに見える女の姿、おお彼女だ、日頃思っていた彼女。彼の喜びはいかばかり彼は彼女にと一歩一歩と近づいていた。
わらわも武士の娘源氏のはしくれ武士に。
さらばひと思いにこの短刀で。すきを見た彼女、うんと正之助の横腹に—鮮血は飛んだ。「よーしこうなれば可愛さあまって憎さ百倍「さては欺し討ちをしおったかー」と正之助は三尺の大刀ぐっと引きぬいた。横腹かかえて彼女に迫った。
「あわれや繊弱き女の身の上いかで男に敵対できよう。遂に正之助の刃に倒れた。折しもそこを通りかかった一武士。「やあ人殺し。」「なんと。」しかし正之助は横腹の傷の痛みに堪えかねた。遂に一武士の刃に仆れた。「うーんさてはあの女を」
「これ女、しっかりせよ」「苦しうございます水を一ばい下され」「よしさらば与えるぞ」湯のみを彼女の唇につけた時、淡い月の光りに照らされて武士の目と彼女の目はぴったりとあった。おおお前は、貴方は―
「気をたしかにしてくれ」「いいえ妾は駄目でごさいます、のろわしい身の上、憎っくき源氏、無念でございます」「よく言うてくれた藤枝」「盛繁さま」彼女はしっかと盛繁の手を握った。おう駄目か呪わしいこの世よ。
さらば一緒に死出の旅路に。
二人の死骸は重なり合って松の木の下にあった。月は彼等を無心に照らしている。青白い顔、静かに眠るかのような二人の顔に—虫の音はいよいよ冴えて、浪の音もほど遠く笛の音は未だ聞こえている。
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2019.7.17 UP