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幽霊松の怪異

那須晴次『伝説の熊野』

田辺

 それは昔ながらの瓦土塀がそのまま士族屋敷の跡を物語る田辺町堀町というのがある。雨のしめやかに降って闇夜の晩である。ここまで来ると傘のうちが俄かに暗くなった。はて変だなと仰いで見ると、思わず首をすくめた。ヌッと薄暗の空に黒い陰影が頭の上を撫でて枝を地上に垂れた老松それは幽霊松である。

 幾十年の昔であったかそれは知らないが、今のあの幽霊松の下に一軒の宿屋があった。ある日一人の虚無僧がその軒端に立った。そして玉を転ばすような、流麗な尺八の音は屋島という曲を吹奏し、虚無僧はやがて草枕の宿りをここに求めた。しかしこの虚無僧は普通の乞食虚無僧ではなかった。 目隠しのあの深網笠をとるとみめうるわしき若者でどこかに品のそなわったゆたけさがあった。

 その夜は更けた。若者は旅の疲れで熟睡した折柄、若者の室へ忍び入った覆面の男があった。矢庭に若者の首をしめた。若者にとっては余りに突嗟であった。若者はその瞬間蹴ね起きる余裕もなかった。やがて曲者は若者の懐から可成り多額の有金が手に触れた時、自分の予想のはずれなかった事を徴笑んだ。曲者はいうまでもなく宿の主人であった。

 宿の庭にあまり大きくもない松が植えられていた。やがて歳月は経った。松はだんだん成長した が松が宿の二階に達する頃、誰いうとなくこの松は幽霊の形に似ているという。宿の主人はこの庭の松を見ることを好まなかった。やがてこの家の主人をはじめ一家は一代の間に絶えてしまった。

 幾年かの後この家の軒には御旅人宿という看板の代りに新しい琴指南の看板がかけられた。琴に堪能な師匠の門前には町の娘達は競うて美しい姿を運んだ。ある夜のことであった師匠は美しい娘達に今夜は屋島の曲を教えて上げようといってやがて絃の調べを試みた。娘達の顔ははればれしてうれしそうであった。娘達はお師匠さんの爪弾く繊細い手つきに目を注いだ。やがて盤上に転ばすような屋島の悲曲が始まった。その時であった。異様な物音が幽霊松の方から伝わったと思うと、ガラガラッと瓦の落つる音がものすごく家は気味わるくゆれた。娘達はアッと悲鳴をあげて逃げまどった。師匠も勿論貢青な色をなしてふるへていた。 それよりは屋島の曲は決して弾かなかったという。今も幽霊松の伝説は町の人の口に語り伝えられている。

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2019.7.17 UP



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