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爪かき地蔵

那須晴次『伝説の熊野』

万呂

 会津川の支流に沿うた堤防を行くと三村栖の善光寺に至る迄に小さい小山の上にコンクリートの地蔵建築物の築かれているのが見えるであろう。これは所謂小山の地蔵でその裏の山の麓にも小さな祠がある。これが伝説の爪かき地蔵である。

 時は第五十二代嵯峨天皇の御代である。弘仁八年の旧暦五月の下旬。即ち弘仁七年に弘法大師が高野山上に彼の金剛峰寺を開かれた翌年である。この時大師はこの地方に来られたそうだ。旧暦の五月下旬と云えば今の梅雨期我国の最も雨のよく降る気候である。その時も非常な豪雨で川水が溢れて大師の通られていた所の東の薮の上には当時の事であるから完全な堤はあったかどうかは知らぬがそれが今にも切れんとして居った。

 大師は初めての土地であるからそんな事とは夢にも知らず、何時止むとも知れぬ雨中をしのんでビシャビシャと泥道を東の薮道の方へ歩を進めて居られた。その時遂に薮の上の堤が切れて忽ち大洪水となった。そしてその魔の手は忽ちの内に薮を嘗め尽してその勢は山麓に及ぼうとした。足元に気を取られていた大師はこの時迄気が付かなかったが気の付いた時には已に遅かった。

 併しじっとして居ればそれ迄だ、水に押流されて運命を共にせねばならぬ。「常に人事を尽して天命を待つべしだ。最後の手段を取るべきだ」と云われたかどうかは知らなかったが結局付近の山に逃げるより取るべき手段としては無かった。それでこの際登る場所などを探して居られよう。大師は今の地蔵のある所迄来た時付近の岩に手をかけて上ろうと試みた。やっとの事で登られた。しかし非常に力を入れたので足をかけた所に爪あとが残った。大師はやがて山頂の道に至って当方に行かれたそうだ。

 付近の人たちは大師の徳をしたって居た折から、これを聞き、「これは大師の爪あとだ」と云ってそこに小さい祠を立てて崇めて居ったのが今日に至ったのだそうだ。今行って見ると長さ五寸位のノの形となっている岩が祠の中に安置している。付近には笹草が生い繁って非常に荒廃している。そして毎年八月の二十四日には西にある小山の地蔵と合併で盛大な投餅が行われる。

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

万呂荘:紀伊続風土記(現代語訳)

2019.7.14 UP



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