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闘鶏神社の由来

那須晴次『伝説の熊野』

田辺

闘鶏神社

 闘鶏神社は今より千五百年ばかり前人皇十九代允恭天皇の御時に建立せられたものでその当時は田辺の宮といったものだそうです。それより約七百年の後、近衛天皇の御時に熊野の別当湛快本宮の熊野権現様をここにうつして新熊野権現と名づけたのだそうです。 これがそもそも闘鶏神社の始まりです。それより約四十年後、元暦元年源平の戰が起った。当時熊野別当は湛快の子湛曹が田辺に住居していた。湛曹は源頼朝と外戚のおばむこではあるがこれまで平家安穩の祈祷をしていた。ところが紀の国中の人々は皆源氏方に心を寄せているので湛曹一人が源氏に背むいていては後難の恐れがある。しかし、今更平氏を見すてる事も昔の好しみを忘るる事である。

 兎ややせん角やせんと案じていたがこの上は神の御啓示を見るより致方がないと思い、田辺の宮に七日七夜参籠して御御楽を奏し祈請したが、ただ源氏に味方せよとの御言葉があった。が猶も疑いをなして赤きは平家、白きは源氏として赤白各々七羽の鶏を権現社前にけあはせたが戦わずして赤の鶏の方が逃げてしまった。そこで湛曹もいよいよ決心して源氏方につき旗上げをしました。即ち闘鶏神社という名がはじめて生れたのです。

 それより湛曹は熊野三山金峰山、吉野、十津川の命知らずの兵どもをよせ集め兵船二百余艘を調えてその勢二千余人を率いて若王子の御正体を舟に乗せまいらせ田辺の湊より漕ぎ出で源氏方に加りました。伊予の国よりかの河野四郎通信も千余騎の兵を率いて馳せ加り九郎判官義経を助けて平家を壇の浦に攻めよせたのであります。この事は平家物語や源平盛衰記にも見えて居ります。また和漢三才図会には次の如く見えています。

鶏闘(トリアワセ)権現牟婁郡田辺に在り。
相伝う昔源平合戦時、試みに鶏闘を催し白鶏を以て源と為し赤鶏を以て平為すと 則白者勝を得、因りて当国の武士志を源家に通ず。

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

闘鶏神社:熊野の観光名所
平家物語11 湛増、壇ノ浦へ:熊野の説話

湊村 新熊野闘雞権現社:紀伊続風土記(現代語訳)

湛増

2019.7.15 UP



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