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田辺の藩主

那須晴次『伝説の熊野』

田辺

 安藤家の祖先は安部仲磨から出る。仲磨から七代の裔孫安部左衛門朝任に至って、藤原姓となり七つの引領の紋を賜わった。これから安部、藤原の頭字を合せて安藤氏と称した。幼から弟重信と共に家康に仕えた。年十七の時、姉川の戦に功を顕した。家康の駿河に隠居となるに及んで本多正純、成瀬正成と共にその老中に加わって政務を預かり聴いた。後徳川頼宣の駿遠を領するようになってその伝相を命ぜられた。元和三年、遠州掛川城、一万石を加えられ、同五年七月掛川から転じ、紀伊田辺城主の命を受けると頼宣から更に一万石を加えられ、与力、足軽同心の給分共、合わせて三万八千八百石余を賜割った。

潮垢離浜
 今の元町金比羅宮の下の浜にある。後白河法皇、熊野御幸の時、潮垢離をなされた所である。今闘鶏社祭礼にここに潮垢離の式を行うのは、これに因んであるのである。

腰掛岩
 潮垢離浜にある。ここに後白河法皇の御腰を掛けなされた岩であると申し地伝えている。

髭洗井
 古町の山際に井の跡がある。文明中連歌師宗祇この地に小庵を結べる時堀れる井であるという。
   世を旅に宿をかり田の辺かな
と詠んだのもこの庵であった。宗祇が湯川という姓を仮れるのはこの庵のありし上野山は湯川氏の砦があった頃でその縁でここに閑居したという。

蘇生(ヨロズ)山
 黄泉(ヨミヂ)山を訛ったので熊野は冥途黄泉の神であるからだという。又いう清姫が安珍を追かけ追かけあの栗栖川のねじ木でしかと安珍の姿が田辺町会津橋を渡る所を見届け五里の道を息をもつがずマラソン競走のそれならでひた走りに走った。
  田辺の西の町はずれヨロズ山に来た時さすがの清姫も阪道にぶったおれた。折柄通り合わせた旅医者に救われやっと息ふき返したので蘇生山と名づけられたという。

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2019.9.8 UP



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