潮見峠合戦
那須晴次『伝説の熊野』
長野村馬鹿野の捻木坂は有名な古戦場である。
天正十三年、豊臣秀吉が根来寺を破壊し、又、太田城を水攻にして陥いれ、吾熊野征伐の為蜂須賀彦右衛門、藤堂与右衛門、仙石権兵衛、青木勘兵衛、尾藤甚衛門、杉若越後守、宇野若狭守の七将と、家来七千余騎を率いて田辺に押し寄せて来た。
これより少し先に日高郡の小松原の城主湯川中務少輔直春が豊臣氏が攻めて来ると聞いたので、近露に退いて横矢六郎に助を求めた。
このとき市之瀬村の城主山本主膳守が岩田川原に陣を敷き、岩田川を挟んで豊臣方の軍を撃退したが衆寡敵せず、遂に下川(地名)に敗北してしまった。
そこで湯川直春、山本主膳の二将が新に連合軍を組織して西郡栗栖川に本陣を敷き覗橋を落してしまい、小野辻を厳重に固め汐見峠を越えて捻木坂で豊臣氏と激戦した。然し湯川、山本勢は険峻な山路に慣れて居るので盛んに駈けめぐって大木、岩石等を投げて寄手を苦しめた。
さしもの藤堂、蜂須賀の勢も山路で、地理に明るくないため駈引も自由でなく、とうとう田辺に退いて一旦休めて曠日弥久の策を立てて守って居た。
然るに一方湯川、山本は付近の地理に詳しい為種々様々の謀で寄手を悩まし、遂に或風雨の夜に乗じて田辺の本陣を襲って焼き立てたので彼等も遂に和を請うて退陣してしまった。故に翌年の天正十四年に湯川直春、山本主膳は一族を率いて和州の郡山に参観したが秀吉は拝謁を許さず却って欺いて直春は旅館に於て毒殺され山本主膳は浴室で暗殺された。彼等の末路は誠に憐れであった。
その一族等は或は自殺し、或は残党二百人押寄せて芳養の城主杉若氏を襲撃したが敗北したり、或は戦死してしまった。こうして市之瀬村の城主山本主膳があれ程功を立てながら、あれ程まで奮戦し乍ら、報もなく遂に暗殺されてしまったのは憐と言えばあまりに憐である。
今も龍松山辰巻之城跡が残って居る。同村一乗寺に偉大なる功績のある山本主膳の墳がある。
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2019.7.14 UP