龍神山の天狗
那須晴次『伝説の熊野』
昔、下秋津の里に一人の樵夫が住んでいた。彼は毎日龍神山に出掛けて木を伐り出し町に出てひさぐのが生活の全部であった。母は老いの身にも拘らず、わが子の為に毎日弁当を持って行くのが常であった。
十二月頃の龍神山は日の光を漏さぬ大木が森々と老い繁って、冷いじめじめした森の気が身に泌んで来る。彼はあまりの寒さに斧ふる手を休めた。今までこつんこつんと木霊していた音も止んで一層あたりは、ひっそりと淋しくなった。
しかし母の事を考えると遠い山路を通って弁当を運んでいる―また斧を手にするのであった。木葉の茂った大樹の陰に憩いながら餓えた猿の様な腹を抱えたとき、母の持って来た弁当、それは麦飯であっても非常にうまかった。ところが每日不思議な事が度々起こる様になった。木を伐っていると、轟々たる音が聞えて、弁当がなくなる。
家へ帰って問い合して見ると、確かに持って行ったと言う。そこで彼は独り考える事があったと見えて裏へ行き、大きな荒砥に斧を載せてごしごし研ぎ出した。
水のついた手は凍る程冷冷たい、しかし彼は一心に研いだ。日も暮れ家に燈もつけられた頃彼は閃々ととぎすました大斧をひっさげて家に入った。何時にもなく彼は早く寝た。
母は不気味に思った。確かに手渡した弁当を受取らないと言い、また半日中斧を研ぐなんて、気が狂ったのではあるまいか。また龍神山の神城でも汚して罰が当たったのではあるまいかと。しかし翌朝になると息子は非常な元気でお昼を持って来る様にと言って出掛けた。
今日は何時もの森の中に入っても彼は木なんど一向きらず、母親の来る所の木陰にかくれて息をこらして忍んでいた。しばらくすると母親が向うからやって来た。息子の名を呼ぶ。しかし彼は姿を見せない。急にあたりが暗くなったと思うと両肩に白い翼をつけ白いあご髭の長々とたれている顔の赤い、勿論鼻は高かったのに違いない、天狗が弁当を受取っている。彼はやにわに躍り出した。天狗の肩先深く切りつけた。天狗はぎゃっと恐しい声を出すや否やばさばさと片翼を残して遠くへと飛び去った。母親はただ茫然としている。
彼は凱旋将軍の勢いで家の宝にと翼を手にして家に帰った。
数日は経った。彼は天狗の復讐を恐れて家にばかりいたが、ある夜暗い晩ではあったが続々と海の方から黒雲が湧き起こって雷鳴のするのを見て取った彼は、天狗が復響に来たのだと思って堅く戸締りをした。
しばらくするととんとん戸をたたく者がある。そら来たと思った彼はやにわに斧を手許に引き寄せて立上った。母親はぶるぶる震って念仏を唱えて居る。戸の隙き間から煙の如きものが入って来たと思った瞬間白衣の老人が立って居る。肩先から腕は片方きり落されて赤黒いずたずたになった肉からはぼたぼたと血が流れる。刻一刻顔色が蒼ざめて行くかと思われた。彼は思わず身ぶるいした。白衣の老人は苦しい息の下から微かにうめいた。
私をあわれと思われませんか。真に私をあわれとお思いになるなら先日の翼をかえして下さい。私はこの苦痛を忍んで山からとぼとぼ歩いて来たのです。以後は一切悪事をしませんからと無い手を合わさんばかりにして頼むのでついに羽をかえしてやった。白衣の老人は翼を片手につけるや否や天狗の姿になって、厚く彼に礼をのべ龍神山に向ってもの凄い羽音を立てて飛び去った。
その後天狗に出遇った人は誰一人ありませんが、今でも龍神山で物凄い天狗の羽音を聞くということだ。
(入力 てつ@み熊野ねっと)
写真は龍神山の山頂付近にある龍神宮(りゅうぜんぐう)。
2019.9.4 UP