茂兵衛と旅僧
那須晴次『伝説の熊野』
夏‼︎ それは暑い暑い夏のまひるの事であった。白金の様な太陽は地上の一切が焦げて仕舞えとばかりに強い光を放っている。そよ風一つも吹かない。田畑の作物も野山の草木はおろか人間も何も全く生気が無い程の暑さだ。その上連日続く旱魃に道の土埃が時々ボッボッと立昇る様な気配である。
実際二十何年目かの暑さだ。茂兵衛も不平たらたら野良仕事から引上げて帰った。裏山の蝉は一しきり鳴く。時は平安朝の頃世は泰平を寿ぎ弥生の花に浮かれ三五夜の月に酔う今月郷雲客は楽しいまどいもあったろうが南紀州の草深い田舍には何程の文化も訪れる由がなかった。それより も村長から都に貢ぐ献米が年と共に多くなり村人の誰の口からも不平の声の漏れる今日此頃、またしてもこの旱魃‼︎ 彼等の心は極度に荒んで行く。茂兵衛が野良から帰って昼寝をしていた時分白埃の立つ山道を一人の旅僧の歩いて来るのが見受けられた。その姿が如何にも苦しそうである。墨染の法衣は所々破れて野バラの葉がからまっているし白衣は汗で絞る程濡れている。旅僧は時々空を見上げた。けれど空には輝く太陽と一片の白雲が山際に見ゆるばかりであった。
旅僧は朝からこの険しい紀州の山道を歩いて来たのだ。今は非常な渇と空腹とに苦しんでいる。村里離れた茂兵衛爺の家が目についた時彼は非常に嬉しそうだった。痛い足を杖にすがって爺が住家の門前に辿りついた。住家とは云うもののすぼった藁屋の畳も何もない駄々ッ広い家にすぎぬ。ただ表は百姓家の常としてかなり大きく柿の木と蜜柑の木がまばらに植っている。「頼もうお頼み申す」先刻の旅僧はこう云いながら笠を取った。日にやけた顔とは云え太く長い眉、澄みきった目なざし、秀でた鼻、引きしまった口、それは無限の慈悲を湛え、しかも犯しがたい威厳が具っている風貌であった。けれど無智な田舎者にはただ一個の乞食坊主としか見えなかった。家の中ではの爺の空鼾が聞えるばかり返事がない。「お頼み申す」旅僧が再度所望した時、爺はものうげな半眼を開いて起もやらずに旅僧の姿を眺めていた。
「何ぞ御用かえー」「拙僧は朝来山越しにて隣村より参りし者、先程より一滴の水も飲まず、非常に咽喉のかゆきを覚えたればお湯なとお水なと頂戴いたしたい......」茂兵衛爺が返事もせずに目をつぶっている。「もし主...........」この時茂兵衛はムンクリ起き上って怒鳴りつけた。「喧ましいわい、この乞食坊主奴、暑けりゃ咽喉のかわくのも尋常だ。俺だってこの暑さにゃ田の作物を取りに行く事すら出来ないんだ。これから二三丁下れば河があら、そこへ行ってたらふく飲みやがれ。俺あ家にゃお前にやる水が無いわい!」こう云うなり、また横になって空鼾を始めた。
剣もほろろの挨拶にいささかむっとした旅僧もやがて静かに一礼して笠をとって出て行った。牛小屋の牛はモーとものうげに鳴いた。溢るる汗をぬぐひながら村に近づいた時、成程一流の河がある。しかもこの日でりに滾々と流れているのは天の賜に相違ない。旅僧は岩を下って水をすくってやっと渇を医した。暫らく考えていたが何思ったかハッシとばかりもったる杖で水面をたたき、またどこへか旅を続けた。日もすでに西にかたぶいて旅僧の影が長く後に引かれつつ彼方に消えて仕舞った。それから数日した頃次第に河水が少くなり所々河底が見え始めて来た。あれ程清例を湛えた水量がにわかに少くなったのには村人も不思議がらずには居られなかった。
噂が噂を生んで人々は安い心地ではいられなかつた。また数日水はすっかり無くなって河原の石にはまぶしい太陽が照りつけている。茂兵衛も勿論知らぬではなかったがまさかあの事がと考えていたが気になったので村の人に話した。村人の一人は驚いて叫んだ。「ソリャー噂に高い空海上人様じゃ、旅僧に姿をやつして諸国を行脚なされているとは隣村で聞いた。これはきっと俺等の非道をお怒になっての罰にちがいない、ああ勿体無い事をした、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」村人達も驚いてめいめい罪を詫びたが最早後の祭となって仕舞った。河は依然として水が枯れている。茂兵衛爺も死に村人の誰もかれも死んで時は流れた。河にはもはや永遠に水がない。夏の夕べ哀愁をひくかのような月見草の花がほの白う黄昏時の闇の中に咲いているのも淋しい情景だ。
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2019.7.26 UP