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こっち勝った勝山

那須晴次『伝説の熊野』

安宅

 今より数百年前淡路島に一小名があった。弱肉強食の戦国の弊はこの平和なる島にも及ぼして遂に豊臣氏に破られて、圧迫の若痛にたえかねた彼は一族郎党家人を引具して紀州路に落ちのびた。 そして日置川を遡りそこを永住の地とした。彼は貧民に金を与え仁政を行い遂にその長となった。(今の日置町大字安宅の地にして安らかに宅を営む意よりこの地名起ると云わる。今日なお安宅姓を名乗る者多し)時世は流る。戦国時代はいつしか豊臣氏の統一する所となり、徳川氏はこれを倒し てここに封建政治を布いた。彼は安宅三河守と名乗りいわゆる殿様となった。戦国の世ならばともかく泰平の世となればお家騒動等一家の醜い争が行われ易いものであった。

 数代の後のある殿様の子に二人の男子があった。長男は愚者でなかったけれど気のきかぬ方であった。正直なる人間であった。次男は賢者ではないがずるい方であった。長男を中心とする家老や家人の保守党。次男を中心とする侫臣等が姦策を用い讒言を用いて殿様の気色をうかがい我利に生きんとあせった。

 殿様は老後を何らの楽しみもなく黙々として何も語らずに居た。そして寂しい生涯を悲しく終った。家老等は家の長く続かざる事を知って嘆いた。ある者は切腹して申しわけした。姦臣等は表面悲しそうな色をしつつも殿様の死と腹切する家臣等を見て快心の笑をもらした。

 争は益々露骨となった、遂に兵火は交えられた。長男は館を守った。はせつけた家臣には物のわかった者ばかりで主に老人の御馬前組だった。 主君の前には身命をおしまぬ人々だった。それで老人でも大身の槍をしごき大刀引き抜いて群がる雑兵切りとおしなぎ殺した。次男の大勢もさすが追いつめられて陣近くまでも退く事数度であった。敵は若者の新手新手を入れかえ入れかえせまった。 如何に心はあせっても身体は動かなかった、一人死に二人死に長男の兵は益々少くなった。

 平和なる村は徒らに兵火に災厄され、戦死者のあわれな死骸が累々と横たわるのみで、今しも釣瓶落しの晩秋の夕陽にこの荒涼たる情景を打眺むる者誰か転た人生の落寞を感ぜぬものがあろう。 その夜長男は生き残る家来を数えては長歎久しうするのであった。丁度その時敵の間者のつけたる火が館に燃え上った、メラメラと燃え上る火を見た時彼は判然と自分を意識した。自分は不肖であった、自分の不肖なる為に村は焼かれ民は死した。今はただ死以外に彼の取るべき道はなかった。正直なる人間の頭には死んで詫びようと云う事より外に何ものもなかったのだ。

 彼は家臣の前に座ったまま「許してくれ最期だ」と云って頭を下げた。戦の労をねぎらう言葉ものどにつかえて出なかった。一坐の者はハラハラと涙を落した。死が悲しいのではない。死がうれ しいのだ。長男の最期の態度がうれしいのだ。一人の家人がつと立って朗々と謡曲をうたって、舞をまった。とめどなく流れる涙に、心をかきむしられる様な悩ましい劇的シインであった。

 我先きに敵の首級を上げて功名を立てんとした軍兵共は謡曲の朗々たるに太刀先が鈍った、ただ茫然として大刀を引っさげたまま頭をうなだれた。正なるものの悲痛な最後の叫びが濛々たる火焔の中に巻かれて聞こえた。

 平常に変らぬ鶏の声と共に夜は明けた、剣戟の叫びも止んだ、新らしい朝日の光に照らされている敗陣のあとの光景は何という惨めなものであろうか。早や死骸にも霜はあった。館の焼け残りが白い煙を立てて居た。百姓達も帰って来た。

 時は移る、次男の陣取った山々は堂々たる棲閣の建築が始まった。やがて家並がそろって町も出来た。

   あっち負けて葬れ.........
   こっち勝って勝山..........

 こういう俗歌が巷間に伝わった。彼はその山を勝山と名づけたのだ。しかし彼は暴政に暴政を重ね疲れたる戦後の民より税を取って土木事業を起した。これによって人民の恨みの声は如何なる方法を用うとも絶えなかった。

 (附記、この家はその後落ちぶれ明治維新後全く平民となり、明治二十二年の水害に少しくあった武器等も全くなくしてその後北海道に移住してしまった)

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

2019.7.25 UP



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