序
那須晴次『伝説の熊野』
伝説は歴史でもなく、またお伽噺でもない。その民族 の人々によって築かれた美しい夢の塔である。その頃の人々の等しく持っていた自然讃仰、郷土愛慕の純な心の象徴と見るべきものである。
世界の何処の国にも何処の里にも伝説のない所はない。わけて我熊野は建国文化の発祥地であるだけに古くから面白い豊かな伝説を數多くもっている。
千古不伐の森林熊野、鯨潮吹く黒潮熊野、幽蓬の瀞峡、 飛泉の那智、 そこにはあまりに尊い伝説が多く秘められ ている。
私は「伝説の熊野」によって、郷土熊野の人達のありし世の生活を偲んで戴けば滿足なのである。
この集を成すに就ては幾たびか熊野の山路に海浜に旅をなしては、そのところどころの伝説を探り求めて記しとどめ、傍ら学生達の休暇帰省するたびにその郷土の伝説を蒐集せしめたものが積り積って二百余種に達したのである。
あるいは記憶の謬錯があり、あるいは伝聞の訛誤があり、あるいは移動転嫁せるものもすくなくない、これが整理なり補正なりする事は容易な事ではない、幾たびか筆を投げては中絶し、中絶してはまた思い出して筆を執ったことである。
学生の粗朴なきぢのままの文もあり、またぎこちない擬古文そのままのもあり、玉石混淆ではあるが、それらをかまわず兎も角ここに上梓するすることにした
装幀と挿画はすべて大阪在住稗田彩花弟の意匠考案になるものである。
昭和5年6月15日
榴花しきりに散る夕
那須晴次識
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2019.7.15 UP