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五郎地蔵

那須晴次『伝説の熊野』

三栖

五郎地蔵寺

 三栖村下三栖高坊と云うところに、名ばかりのささやかな地蔵堂がありました。それは何時頃建てたか誰によって建てられたか、左様な事は知られよう筈はない、併し、随分古くから有った者と見えて、その小さな地蔵堂は殆ど朽ち果て、彫刻人知らずの木造の地蔵様がぽつねんと塵に埋れて祀られていました。

 万治元年の頃この村に五郎と呼ぶ少年が居りました。彼の家はごく貧しい生活をして居りましたが、彼の正直なことは近所でも評判のほめられ者でした。五郎は毎日毎日山々に行ってお花を切ったり、或は村人達の用を聞いては、家の生活の助けとして正直に、よく仕事に精を出して働いていました。

 彼は今日も朝早くから山に行ってお花を切り、それを田辺の城下へ売りに行くのでした。彼はこの地蔵堂の前に荷を置いて休みました。彼は花束の中から若干の花をぬいてそれを地蔵様の花筒にさして一心に拝みました。五郎はかくして毎日毎日この地蔵様にお祈りを致しておりました。

        ×       ×

 月日は夢の如く流れました。五郎も立派な若者になりました。そして今や彼は前の様な花売りではなく田辺藩士小川氏の僕として前にもまして一生懸命にその職務にいそしんでいました。

 彼の忠実な務め振りは直に主人の知る所となった。彼は段々主人に寵愛されるに従って益々その勤勉振りは進んでゆくのでした。——何となれば、彼は主人に認められようと云う様なそんな浅はかなさもしい考えで働くのではなく全力を尽して働きたいと云うのが彼の性質であったから——自分の欠䧄を顧みずして他人の幸運を羨みねたむのは小人の常であるが、彼よりは古参の佐之助と云う僕もその一人であった。

 五郎は何かにつけて佐之助の為に虐げられた。併し従順な彼は佐之助が彼よりも年長であるのと自分が新参者であるが故に、素直に佐之助に従っていました。五郎が忍んで居れば居る程、それをよい事にして佐之助は彼に益々つらく当りました。

 その頃佐之助の主人と同藩士である落合某の僕、仁蔵と佐之助の両人は佐之助と同じ屋敷に仕えている侍女の楓に人知れず恋心を抱いて居りました。

 或る日佐之助は仁蔵に語らって五郎を追い出そうといたしました。然し悪計はいくばくもなく暴露された。ここに前から楓に思を寄せていた佐之助は幾度か悪を友とした仁蔵が自分の恋敵であると知った時、彼の忿怒の刄は必然仁蔵の上に落ちて行くのでありました。——その結果彼佐之助は遂に仁蔵を失き者にせんと計ったのでありました。

 それは暗い暗い闇の夜でありました。ザーッザーッと打ち寄せる波の音のみが淋しく、夜の寂寞を破って聞えました。佐之助は五郎に命じて仁蔵を誘びき出させました——海近い松並木であります。……その夜!その三つの影は何を為したか? その夜明け方大暴風がありました。——それは夏季には珍しくない田辺地方の暴風雨でありました。

 嵐の夜は明ける——あれ程荒れていた嵐は静まり海は凪いだ!。併し流石に浜辺には種々のものが打ち揚げられてそぞろによべの嵐の烈しかりしを語るかの如くでありました。それら、打ち揚げられしものの中から仁蔵の屍が出た。

 忽ち浜辺は黒山の人を築いた。やがて検死の役人が来た。そしてすぐ様佐之助と五郎とじゃ囚れの身となった。併し、五郎には何の罪科もないのである——彼はひとやの中で、自分が故郷に居る頃拝んだあの地蔵様を幾度も幾度もお祈りした。そして冤罪の明らかならんことをお願いするのでありました。

 或夜の事でありました。五郎はうつらうつらとしていると「五郎」「五郎」と低い底力のある声で呼ぶ者があります——彼は思わず目を開きました。見るとどうでしょう。………目前に立っているのは確かに自分の日頃念じて居るあの地蔵様ではありませんか。五郎は思わず平伏しました。地蔵様はおごそかな口調で申されますよう——「五郎、お前は中々感心な男だ。わしは久しくお前に供養せられたあの地蔵尊であるぞ。この度汝の冤罪を明かにせんが為めここへ参ったものだ」と。

 こう言ったかと思うと地蔵様の姿はかき消すが如く消えてしまいました。五郎はハッと目が覚めてあたりを見回しましたが誰も居りません。矢張彼は冷たい牢獄の中の囚人でありました。やがて夜が明けました。

 彼はこの夢を唯の夢として、すてる事はどうしても出来ませんでした。そして前にもまして地蔵様を信仰しました。

 やがて彼ら二人の罪は決まって打首にされることとなりました。……いつかの夜の松並木で……

 佐之助の首は先ず打ち落されました。今度は五郎の番です。首切り役が秋水三尺水も滴らんばかりの太刀をふりかざしました。やがて気合の掛け声と共に、一閃きっと打ち下されました。ガチッと云う異様の物音が致しました。五郎は瞑目して端然として坐しておりました。

 二番太刀は、はねかえされて首切り人が卒倒しました。群衆は、この変事はきっと何かの霊の五郎を助けるものだと思いました。

 かくして五郎の無実は罪は晴れた。彼は無事家に帰ることが出来ました。

 村人は五郎の助かったのは全く地蔵様の御加護によるものだと言って不思議がりました。彼、五郎自身も全く地蔵様の御蔭だと云うことを信じて居りました。

 それから間もないことです。五郎の世話で地蔵堂は立派に建て変えられました。霊源あらたかな地蔵様として人々からは非常に信仰されました。

 それは、今より二百六十有余年前、万治元年の事です。この事あって以来この地蔵堂は誰言うとも無く「五郎地蔵」と呼ばれる様になりました。

 今の御堂はそれから後当時の場所より一町程下手に建てられたものだそうです。

 

(入力 てつ@み熊野ねっと

三栖荘:紀伊続風土記(現代語訳)

下三栖村:紀伊続風土記(現代語訳)

2019.7.14 UP



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