七人塚の由来
那須晴次『伝説の熊野』
市鹿野から彼の清い流れ日置川に沿うて田辺へ出るには関場の渡しを越える。そこを渡って二丁ばかり街道側に三四戸の土路という小部落があってここに今はただ形ばかりの七人塚が残っている。
それは今からおよそ二百五十余年前市鹿野の荘に当時庄屋を勤めて居た温井角太夫という者があった。この者が自分の役目を乱用しいろいろ不正な事をしたので百姓達は非常に難儀をした。ついに延宝六年午八月主立った者三十名余り連名して時のお目付に角太夫の横暴を訴えた。しかし取調に出張した役人は角太夫から沢山な賄賂を貰って却って角太夫に味方し無実を密告したものとして訴人側を罪にした。
終に詮議の結果三十余名中の主謀者七人は到頭延宝七年已未十二月二十二日関場硲の小池という場所で角太夫の為に斬られてしまった。その首を葬った所を七人塚と呼ぶのであった。あくる年の元日の朝の事である。角太夫が顔を洗おうとすると手水鉢にあの七人の首が恨めしそうにもの凄くも映って無気味にニヤリニヤリ笑っていた。
そんな不吉な変事があってから以来さしも不義の栄華を極めし角太夫一家にも打続いて不幸が起こり久しからずして没落してしまった。それは無実で斬殺された七人の怨霊のたたりだということである。
(入力 てつ@み熊野ねっと)
2019.9.18 UP