殉死の発生と殺老及び棄老
殉死のさかんに行われた時代にあっては、それは必ずしも変態の葬礼とは言えぬけれども、それかと言うて常態とも想われぬので略述する。魏志の倭人伝によると女酋卑弥呼が死んだ折に、奴婢百余人を殉葬したとあるが、この女酋は我国の文献には載せてないのでしばらく措き、殉死の我が記録に見えた初めは垂仁紀の左の記事である。
二十八年冬十月、天皇の母弟
倭彦命薨せぬ。十一月倭彦命を
身挟桃花坂に葬る。こゝに近習の者を集へて、悉に生きながらにして陵域に埋め立つ。数日死なず、昼夜
泣ち
吟ぶ。遂に死して
爛※[#「自/死」、U+81F0、175-5]りぬ。犬烏
聚り
む。天皇此の
泣ち
吟ぶ声を聞きて、心に
悲傷有す。群卿に
詔して曰く、それ生くるときに
愛みし所を以て
亡者に
殉はしむ。これ甚だ
傷なり。それ古風といへども良からずば何ぞ従はむ。今より以後、謀りて
殉はしむることを止めよ。
その後三十二年秋八月に、皇后
日葉酢媛命
が薨去せられた折に、またも殉死のことが問題となり、詮議の結果として
野見宿禰
に命じて埴輪土偶を作らせ、これを陵域に立てて殉死の男女に代えることとした。しかしながら我国の殉死は、これに由って根絶したものではない。時代の好尚と死者の身分とにより、多少の相違は在ったけれども、はるかに後世まで習俗として行われたものである。播磨風土記の
飾磨
郡
貽和
ノ里の条に、雄略朝に尾治連の祖先である
長日子
と、その善婢と愛馬との墓が三つ並んでいるが、これは長日子の死に妾と馬とを殉葬したものである。さらに孝徳紀の大化二年の条には、『人
死亡
る時に、若くは
経
きて自ら
殉
ひ、或は絞きて殉はしめ、及び
強
ちに
亡
し人の馬を殉へるが如き旧俗は、皆悉く
断
めよ』とあるのは、まだこの時代に殉死がさかんに行われ、或いは自発的にまたは強制的に、この蛮習の存したことが窺われる。殊に注意すべき点は死者の愛馬を殉葬したことであって、前掲の播磨風土記の如き陋俗までが、なお依然として行われていたことである。今に神社へ絵馬を納める源流は、即ちこれに出発しているのである。そして令集解の古註によると、信濃国では夫が死ぬと妻を殉死させたと載せてあるのを、粗忽の者は姥捨山の派生伝説位に考えているようであるが、これは決して左様なものではなく、古く我が全国に渉って行われた殉死の弊風が、たまたま同国に残存したものと見るべきである。妾と馬とは殆ど世界を通じて殉死の先駆者であるが、これに次いでは妻であった。しかも古代には老人を冷遇する習俗が濃く、殺老は
左迄
に珍らしい事ではなかった。そしてこの老人を殺すことが、食人の嗜好から出たものか、それとも食料の欠乏に由ることかは異説があるも、我国においても殺老から棄老となり、さらに隠居と云う制度を生むようになったことは、しばしば疑いのない事実と見て差支えないようである。こうした情態に置かれた社会にあっては、幾度か殉死を禁ずる法令が発せられても、なおこれを払拭することが出来なかったのである。そして武家階級が起るようになり、主従道徳が強調さるるに随い、俗に『追い腹』と称してこれを行うた。時勢の
降
った徳川期にあっても、将軍とか大名とかが死ぬと、家臣は主従三世の武士道を重んじ、三人または五人の殉死者のあるのが尋常とされていた。三重県津の城主であった藤堂高虎が死んだ折に、十八名の家臣が追い腹を切り、その墳墓が主人の
塋
域を囲んで並んでいるのを見ると、誰か民俗の永遠性を想わぬ者はなかろうとさえ考えるのである。
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