み熊野ねっと分館
み熊野ねっと

 著作権の消滅した熊野関連の作品を公開しています。

 ※本ページは広告による収益を得ています。

田辺繁栄策

管野須賀子〔管野スガ〕

籠城主義

 失敬ながら田辺人は、随分ケチン坊だということを毎度聞きますが、わらわはケチン坊というよりは、むしろ籠城主義、保守主義だと思うのであります。

 それというのは事新らしく言うまでもなく、明治の今日にいまだ鉄道さえ通じない、辺鄙の土地でありますから、交通不便の結果は自然に、別世界の有様となって、進んで事を成そうというよりは、むしろ握った物を離さないように、後生大事に守っているようという、即ち籠城主義、隠居主義、個人主義で、一般の人の心が、土地の辺鄙と同様に、小さな変に固まったたものとなってはいまいかと思うのであります。

宝の持ち腐され

 しかし今日までは、それでよかったかもしれませんが、将来いつまでもこのままでいるということは、随分迂闊な話でもあり、かつまた生存競争が激しい今日、一番手近い所で言っても、総てに活気のある新宮町などに押されて、想像するだに惨めなものになりはしまいかと、まあわらわ一人だけは余計な心配をしているのであります。

 しからばいかにしたならば好かろうかという問題になって来ますが、聞く所によれば、何か大製造会社を拵えて、田辺の繁栄を謀るという御計画もあるそうですし、また紀州特産の物産を、生産するということも好かろう。それらはいずれもまことに結構なことではありますが、しかしわらわはまだそれら以外に、田辺人が、実に宝の持ち腐れをしておいでなさると思うのであります。

浜と温泉

 何でありましょうか。それは扇ヶ浜鉛山(かなやま)温泉の二つであります。

 元来は社会主義者の一人として、すでにどうかして金を儲けようなどという、浅ましい個人主義を排斥するものでありますが、とにもかくにも社会は日に月に進歩しつあるのですから、我が田辺独り常に後れて、喘ぎ喘ぎついには自減するような悲運に陥し入れたくないと思うの余り、稚(いわけ)ない心についかかることを思いついたような次第なのであります。

 それでわらわは、我が田辺の繁栄を計る、まず第一の近道は、田辺のために特に天から授けられた、以上の二勝地を大いに利するが好かろうと思うのであります。

 今日のままに打ち過ぎては、単に田辺の衰運を招くのみならず、却って天意に悖(もと)る次第であろうと考えるのであります。

戦後の経営

 実はわらわはいまだ残念ながら、鉛山温泉へは行ったことがありませんから、思い切ったことは言われませんが、すべての設備が至って不完全だという事を聞きましたので、それでは到底多くの人を引き寄せることはできまいと思うのであります。

 殊に不便な僻地でありますから、折角わざわざ遠方から来た人でも、設備の不完全なために一旦不快を感ずると、たとえ湯そのものに効能はあっても、自然再び来ぬというようなことになりますから、わらわは、戦後の経営として、当町の有志諸君がこの際一大奮発をして、田辺繁栄策の第一着に、将来は熱海、有馬等を圧倒せんの意気込みを以て、温泉の設備を完全にせられんことを希望するのであります。

第二の京都

 それになおその上、須磨、舞子にも劣らぬ扇ヶ浜もあり、夏は海水浴場さえ……(これも完全なる設備を要す))……あるのですから、たとえ充分とまでは行かずとも、相当の設備をなしたる後、来る者は拒まず的の態度を一変して、社会に大々的の広告(というといささか語弊はありますが)をなし、いつとも知れぬ鉄道の開通を待つ間に、田辺町の面積を大いに広げて、南海の大都会、第二の京都としてはどうかと思うのであります。

理想の社会

 わらわただ一個人の上より言えば、たとえ田辺が東京のような繁栄地になろうとも、理想の社会とはもちろん言われないのでありますが、とにかく今少し文明の空気を吹き入れなくては、この地がこのままで大々的覚醒して、理想郷を出現するということは、到底むつかしかろうと思うので、とにもかくにも、進化の理法に叶うように、一歩でも前進せよかしと、かかる繁栄策を持ち出した次第であります。

 もちろん当地方の事情に通ぜぬ上、ただ感じたままを記したので、識者の眼からは随分の愚論であろうとは思いますが、とにかくこれによって有志諸君が、田辺繁栄策という問題の研究をしてくださる動機とならば、わらわは実に満足するのでございます。

〔幽月女『牟婁新報』第582号・明治39年(1906年)4月21日〕



底本:「管野須賀子全集 2」弘隆社
   1984年11月30日発行

※表記は底本のままではなく、旧字、旧かなづかいは常用漢字、現代かなづかいに改めています。一部、漢字をひらがなに改めている箇所もあります。

管野須賀子(かんの すがこ)

本名、管野スガ(かんの スガ)。明治時代の新聞記者、社会主義者。
女性の解放と自由を求めた女性ジャーナリストの先駆者。筆名は須賀子、幽月。
国家権力によるでっち上げの事件「大逆事件」で死刑に処された12人のうちのただ1人の女性。享年29歳。

明治14年(1881年)6月7日、大阪市に生まれる。
明治35年(1902年)7月1日、『大阪朝報』の記者になる。
明治38年(1905年)10月頃から和歌山県田辺町の地方新聞『牟婁新報』の社外記者になる。
明治39年(1906年)2月4日、『牟婁新報』に社主・毛利柴庵の入獄中の臨時の編集長として招かれて赴任。毛利柴庵の出獄後、5月29日に退社。
明治43年(1910年)6月1日に大逆罪で逮捕される。
明治44年(1911年)1月18日に死刑判決を受け、7日後の1月25日に死刑に処される。

(てつ@み熊野ねっと

2023.6.3 UP



ページのトップへ戻る