籠城記
管野須賀子〔管野スガ〕
無量の感
紀念すべき四十五日も、いよいよ昨日限り夢と消えて、我々雑兵の痩せ腕に、ようよう支えて来たこの牟婁城を、めでたく娑婆の人となられた社長の手に、今や御渡しするの、待ち焦がれた嬉しい日が参りました。
短かいような長いような、辛いような面白いような、愉快なような忌々しいような、じつに種々雑多、限りある言葉では到底尽くされない一種言うべからざるこの一ヶ月半を顧みるとき、わらわは実に無量の感に打たれざるを得ないのです。
が、とにもかくにも、今やこうして社長も出獄せられ、わらわの任もここに全く終りを告げたのでありますから、 わらわは思うても冷汗背をうるおす過去一ヶ月半の、軽からぬ責任を全うし得なかった罪を、社長、社友、ならびに読者諸君の前に、改めて幾重にも御詫びをなし、ついでに編集を辞す辞に代えたいと思うて、この籠城記に筆を染めたのであります。
拙い新聞
思えば早や三月、わらわが初めて田辺の土を踏んだのは、いまだ白いもののちらちらする如月(きさらぎ)の初めでした。
精々一ヶ月か一ヶ月半だけのことゆえ、曲げてもとの社長の仰せに、あらゆる事情を排して参ったのでしたが、大審院の判決が遅れたため、心ならずも一日送りにした結果、故郷の人々には到頭不信用者の名を売ってしまったのであります。しかしこれも余儀ないことで、責任重き事業と病夫人とを残して、囹圄(れいぎょ / れいご:牢屋)の人となる社長の上を思えば、微力事に堪えない自分を顧みるの暇もなく、何とかしてでき得る限りは犠牲の二字にその身を任されたこの社長のために尽くしたい……との一念で、おこがましくも編集の重任に当ったのでしたが、 今更思えば、じつに消えも入りたくなるほど、毎号つまらない新聞を拵らえました罪、何と申してよいやら、ただただ平にお詫びをするの外はないのであります。
熊実紙と筆戦
一ヶ月半、口で言えば何でもありませんが、その間にはずいぶん色々なことがありました。しかし一々それを記し ていては際限がありませんから、今その中の重なることを一つ二つ抜いて記せば、その第一は熊実紙との筆戦であります。
熊実紙の、いわゆる風来者のわらわ等は、一向事情に通じませんから、もちろんよくは知らないのでありますが、我が社長と同紙の記者先生方とは、(熊報紙のも)よほど別懇の間柄のようでありますのに、かの置娼問題について、 互いに主義を異にするところから、争うの止むべからざるに至り、ついに一大筆戦を開始して、穏かならぬ新聞を拵えたことであります。主義と理屈は別間題として、とにかく留守中の新聞は飽くまで穏健なれと、繰り返し言い置かれた社長に対して、まず第一に謝さなければならないのはこれであります。
一部の批難
それから第二は、これも置娼地指定問題について、我が社の機敏な探訪が、あまりに行き届き過ぎた結果、誰彼の差別なしに秘密を素破抜いたので、緒方へいろいろと当たりのできたことであります。そしてそれが我が社、あるいは我が社長へ同情のある、因縁のある人々に及んだのだからおかしいのです。いかに直言直筆を標榜していても、もしも社長がおられたなら、あるいはかれほどまでに書かなかったかもしれません。しかしそこが即ち風来者のありがたさは、因縁だの情実だのというものが微塵もなく、またてんで誰が社に関係のある人やら、同情のある人やら、もちろん詳しう知ろうはずもないのだから、是を是とし、非を非とし、探訪の結果を公にするのは、決して無理のない話なのであります。否、当然のことであろうと思うのであります。
それを己れのことはちゃんと棚へ上げて置いて、ただ一途に我等記者を恨み、中には同盟して本紙の購読を中止するなどと、脅かし半分? 申し込まれた肝っ玉の小さい方もあったのです。否、単にそればかりではない。
種々の方面から手を回して会社の筆を押さえんとし、あるいは起訴せんとし、ずいぶん狼狽をせられたのであります。かくてそれ等の一味の人々の中に、本紙の批難はようやく高くなったようであります。
しかし我等はビクともしませんでした。恐れませんでした。なぜならば正義の二字が、常に百万の味方に優るの応援をしてくれるのですもの。
けれどもまた一方から言うと、これも社長ならびに個人としての、社友としての、それ等の人々に対しては、じつにお気の毒な次第と言はねばなりません。ゆえにわらわは直言直筆ということがもしも罪悪であるならば、社長ならびにそれ等の人々に対して、いつでも謝するつもりであります。
寒村君の退社
微力とはいえ、とにもかくにも寒村君とわらわとの両人で、社長の留守を預ったのでありますから、たとえいかような事情があろうとも、社長の出獄せらるまでは、両人が責任を分って、おとなしうお留守番をしなければならないのに、中途にして突然寒村君が退社したということは、寒村君もわらわも共に社長へ対して、実際済まない、 申し訳のないことなのであります。しかし、しばしば記載した通りの事情で、万止むを得ませんから、せめてはたとえ僅かの時日でも、余計な思いを煩せたくないと思って、獄中の社長の耳へはついに入れずに、君の退社を断行してしまったのであります。ゆえにその間の岡本様始め我々の苦心は、なかなか容易なものではありませんでした。否、我々ばかりではない、去る寒村君もずいぶん苦しまれたのであります。
川崎君の入社
そこで、寒村君が不意に去ると、困るのは跡に残ったわらわです。それで岡本様とも種々御相談の上、かねてより社長とも懇意であり、かつ社外記者ともいうべき、常に投書をしてくだすった、本社とは縁故のある川崎君を、とにかく寒村君の後継に入社してもらったのであります。
我が社に一つ困ったことは、わらわが社会主義者で、川崎君はその反対者であるの一事なのであります。されば といって、何も編集局で、口角泡を飛ばして争うというような真似をするのでもなし、またそのような暇もありませず、ことに川崎君は、すべてに気のつく親切な方でありますから、個人としては、まことによい友なのでありますが、根本の主義が相反しているものだから、困るのは紙面の上の統一であります。たとえ一行のものを書いても、その中に己れの思想は顕われるものでありますから、この相反した両人が筆を執っている本紙、別項にある痛切な読者の批評にある通り、じつに近来の本紙は、その筆法の統一を欠いているのであります。じつはこのことはわらわの最も苦痛とするところなのでありましたが、しかもまたじつに止むを得ないのであります。しかしわらわは、今このことについては何をも言いません。ただ、君がこの差し当る、寒村君の去られた跡の多忙な編集を、助けてくだすった厚意を、深く謝すのであります。
感謝
かくてなにかれと、あるときは人の情に袖を絞り、あるときは今日限り編集を断ろうと激することもありましたが、まずとにもかくにも、どうやらこうやら、わらわが最後の責任の、この紀念号を無事に発刊することを得ましたのは、じつに、神に謝してよいか、社友に謝してよいか、社内同人に謝してよいか、読者に謝してよいか……。
否々、神には無論謝さなければなりません、社友! ことに、すべてのうるさい衝に一々当たられた、岡本氏等には、ことに大に謝さなければなりません。
社内同人! 社長の不在中一層奮励と勉強をせられた社内同人には、さらに大に感謝しなければなりません。なおその上に、浅学不才、取るにも足らぬわらわ等の筆になった新聞を、御叱りもなく愛読してくだすった読者諸君の寛大に至っては、ただただ感泣するの外はないのであります。大方の読者の、溢るるばかりの御同情があればこそ、どうかこうか、曲がりなりに責任を果たして、今日めでたいこの紀念号を、無事に発刊することができたのであります。繰り返して、諸君へ感謝いたします。
わらわの退社
それからわらわの進退であります。前にも述べた通り、帰京の期が大に遅れているのでありますから、じつは責任を果たし次第、今日にも帰りたいのであります。否、四十五日の苦き杯を嘗められた社長の上を思えば、せめてここ十日か、十五日だけでも、社長が静養される間、止まって編集をお助けするのが人情であることはよく存じているのでありますが、さてまた、振り返って、打ち捨てて来た京都における己が無責任を顧みるときには、一時も安閑としていられない気がしますので、せっかく土地にも人にも御馴染になったのでありますから、万一諸君がわらわの如き厄介女をもなおかつ捨て給わず、迎えてくださることがありましたなら、他日再び改めて参りたいとは思いますが、とにかく今度は、ここ数日中に帰京したいと思うのであります。
という中に、ただ一つ心懸りなのは、妹の病気で、主治医の仰せではよほど経過がよいから、たぶんその頃には船に乗っても差し支えなかろうとのことでありますが、何分にも病気のことゆえ、またいかように変ずるやもわからず、ただこれのみを案じているのでございますが……。
しかしとにかく右のような次第で、名は籠城とはいうものの、ずいぶん腕白な戦いをもなし、またわらわ一人の上よりいえば、言わでもよい憎まれ口をも利いたのでありますから、中には感触を損ねられた読者も少なくはなかろうと思うのでありますが、そのところが即ちまた、正直なお人好の特色なんだと、幾重にも御ゆるしを願いたいのであります。
社長へ、その留守中の出来事を告白するべく、一はまた勝手な熱を吹きまくった罪を諸者へ謝すべく、長たらしい籠城記を書くことこの如し。
〔幽月女『牟婁新報』第584号・明治39年(1906年)4月27日〕
底本:「管野須賀子全集 2」弘隆社
1984年11月30日発行
※表記は底本のままではなく、旧字、旧かなづかいは常用漢字、現代かなづかいに改めています。一部、漢字をひらがなに改めている箇所もあります。
管野須賀子(かんの すがこ)
本名、管野スガ(かんの スガ)。明治時代の新聞記者、社会主義者。
女性の解放と自由を求めた女性ジャーナリストの先駆者。筆名は須賀子、幽月。
国家権力によるでっち上げの事件「大逆事件」で死刑に処された12人のうちのただ1人の女性。享年29歳。
明治14年(1881年)6月7日、大阪市に生まれる。
明治35年(1902年)7月1日、『大阪朝報』の記者になる。
明治38年(1905年)10月頃から和歌山県田辺町の地方新聞『牟婁新報』の社外記者になる。
明治39年(1906年)2月4日、『牟婁新報』に社主・毛利柴庵の入獄中の臨時の編集長として招かれて赴任。毛利柴庵の出獄後、5月29日に退社。
明治43年(1910年)6月1日に大逆罪で逮捕される。
明治44年(1911年)1月18日に死刑判決を受け、7日後の1月25日に死刑に処される。
(てつ@み熊野ねっと)
2023.7.4 UP