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県下の女子に檄す ……ああ、置娼……

管野須賀子〔管野スガ〕

※明治39年(1906年)、和歌山県知事は県議会の建議を受けて県内の3ヶ所に遊郭設置を許可しました。新宮(浮島遊郭)、串本(大島遊郭)、日高郡白崎(糸屋遊郭)。3か所のうちの2ヶ所が熊野地方にあり、管野スガは和歌山県の遊郭設置に反対しました。(てつ)


 我が県下の女子諸君、

 諸君は今眠っておられますか、はたまた覚めておられますか。諸君は侮辱というものを御存じですか、御存じゃありませんか。諸君に一片の気概というものがありますか、ありませんか。

 いやしくも諸君が覚めていて、侮辱なるものを御存じで、一片の気概があるならば、諸君、諸君は今果していかような感に打たれておいでです?

 ああ、諸君、我等婦人は侮辱せられたのであります、この上のない侮辱を加えられたのであります、人権を蹂躙せられたのであります、公然奴隷とせられたのであります。諸君、それでもなお我等は黙して、この暴虐の前にひざまずかねばならないですか。

 公娼許可!!! 公娼許可!!! ああ、諸君。憐れむべき貧弱なる人の子をして、公然淫をひさがしめんとする、およそこれほど、惨忍暴虐、言おうようなき大罪悪、大侮辱が他にありましょうか。戦勝の余栄とかで一等国に進んだとか何とか、口に文明を叫んでいる日本が公然売淫を奨励するとは、何たる矛盾でありましょう、何たるたわけさ加減でしょう。あまりの事に開いた口が塞がらないではありませんか。

 諸君、この底の知れないたわけた大馬鹿な大罪悪は、そも何に起因するのでありましょうか。諸君は何とお考えです。

 これ畢竟、婦人を、人として認めない、ただ一種のおもちゃ視している人間が、この社会にいるからであります。

 諸君、諸君にしてもし、この大々的侮辱をも、なお甘んずるだけの雅量があるならば、何をか言わん、私はこのまま筆を投じます。しかしながら私の考えでは、恐らくそんなおお人好しの、間抜けた意気地のない御婦人はおそらくおそらく我が県下、否我が国には現今一人もなかろうと思うのであります。万に一つもあるようならば、その人は××××です、××××です、××××××××です。決して普通の人間ではないのであります。その人は婦人としての価値が断然ないのであります。そのような人は実に生てきいる資格がないと言ってもよいのであります。

 ゆえに私は、諸君が何れもこの大侮辱、大暴虐に熱涙を揮って、私同様憤慨しておらるる事と信ずるのであります。しか察せざるを得ないのであります。

 ああ諸君、我等婦人をして、この大侮辱に泣かしむるの、この大暴虐をあえて成す者はそも何人でありましょう?  そも何奴でありましょうか。我等婦人のために不倶戴天のこの仇敵は、そもいかなる悪魔でありましょう!

 諸君、それは××××××××××××××××××××という、厚顔無恥、暴虐無礼、荒淫漁色の、醜漢中の大巨魁たる馬鹿××であります。人面獣心の冷血動物であります。

 諸君、我等は彼に対し、××××××××たる××××××××、この大侮辱に報ゆるに何を以てしたならばよいでしょう。そもいかなる手段と方法とを以て、我等のこの熱涙ほとばしる悲憤の報酬をしたものでありましょう?

 諸君、他なし、かかる××××の一片同情の念なき動物に対しては今また多くを言わず、ただ、××××××××××あるのみです。ただ×××××××日本婦人の魂あるのみです。

 ああ、我が県下の婦人諸君中、私はたしかに、この大屈辱を殺ぐに足る大胆なる、意気ある、敬服すべき婦人のある事を信ずる者であります。

 ああ、諸君、大方の婦人諸君はこの大侮辱に対して、いかなる態度を取らんとし給いますか。私は謹んで諸君の輿論を待っております、耳をそばだてて諸君の決心を聞いております。そして及ばずながら、諸君と共にこの醜漢征伐を決行したいと思うのであります。

〔幽月女『牟婁新報』第566号・明治39年(1906年)3月3日〕



底本:「管野須賀子全集 2」弘隆社
   1984年11月30日発行

※表記は底本のままではなく、旧字、旧かなづかいは常用漢字、現代かなづかいに改めています。一部、漢字をひらがなに改めている箇所もあります。

管野須賀子(かんの すがこ)

本名、管野スガ(かんの スガ)。明治時代の新聞記者、社会主義者。
女性の解放と自由を求めた女性ジャーナリストの先駆者。筆名は須賀子、幽月。
国家権力によるでっち上げの事件「大逆事件」で死刑に処された12人のうちのただ1人の女性。享年29歳。

明治14年(1881年)6月7日、大阪市に生まれる。
明治35年(1902年)7月1日、『大阪朝報』の記者になる。
明治38年(1905年)10月頃から和歌山県田辺町の地方新聞『牟婁新報』の社外記者になる。
明治39年(1906年)2月4日、『牟婁新報』に社主・毛利柴庵の入獄中の臨時の編集長として招かれて赴任。毛利柴庵の出獄後、5月29日に退社。
明治43年(1910年)6月1日に大逆罪で逮捕される。
明治44年(1911年)1月18日に死刑判決を受け、7日後の1月25日に死刑に処される。

(てつ@み熊野ねっと

2023.6.9 UP



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