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半日の閑

管野須賀子〔管野スガ〕

 午前十時にと約せし清滝師を高山寺に訪い、秋津の里に羽山ドクトルをおとずれ、さらに足を延ばして奇絶峡の勝を探るべく半日の閑を空(あだ)に過ぐさじと、例の通り寒村君と妹と三人、家を出たのはそよとの風もなき、春日陰麗らかな十八日の午前九時半。

 田辺の町は言わずもがな、遠く波静かなる入江の海まで、一望の中にある、開け放した高山寺の小座敷に、色白う髯(ひげ)うるわしき主人の師と、相対した我等三人。談話はまず宗教より社会主義。

 身は僧籍におわすとはいえ、進歩せる思想を抱いて、六大新報の経営を一身に負い給う程の師、その奉じ給う真言宗の上について語り給うところ、かつて毛利氏より耳にせしのとほぼ同じく、世の生臭坊さん達の腐りし頭脳に、少し吹き込んであげたいような感が思わず……。

 社会主義に移ってよりは、寒村君の独り舞台、飽くまで落ち付いた師の問いに答えて、例の熱血ほとばしる雄弁。
 進んで種々の御意見をも伺わんとの望みは、早くも今日帰途につき給う十二時の出発時間に遮られて、残り惜うもおいとまにせんと立ち上るとき、
「寒村君も幽月さんも中々お筆が激しいが、まあなるべく穏かに婉曲に……また筆禍事件でも起こしては詰まらないから、ハハハハ、これはほんの老婆心で……」

 彼の御忠告は、きっと誰かが師に頼んだんですよ、などと語りながら、六つの下駄はやがて羽山ドクトルのお玄関。

 石のたたずまい、庭樹の好み、燈籠の苔の古び、とりどりに趣き面白き庭を見晴らしの八畳、「治身清素」と記せる篇額も、何とのう床しい主人の心を語り顔。

 座には糸田の里の俳人素雄ぬし、主人(あるじ)の君、しとやかな夫人、我等の三人、なかなか賑やかな欒(まどい)なり。毛利師の噂やら、俳諧の講釈やら、お茶を飲むやら、カステーラをかじるやら。
 わらわの請いに任せて素雄うし、鉛筆の走り書きさらさらと、

    幽月女史に初めみえして
  春風や人交際(づきあい)の珍らしき
  のどかさや野路ふみたがる都人

 ゆるゆる遊び給えと止めらるるを、
「奇絶峡へはどう行きますか?」
「そんな所は知らんのシ」
と言いし鄙人(いなかびと)の言葉を語り、
「そのはずです、川中と言わなければこの辺の人にはわかりません」
との教えを受けておいとまにす。

 洋傘持たざりしを悔ゆる程の暖かさ。黄金の華とばかり美しき鈴なりの金柑樹の多さに驚き、蒲公英(たんぽぽ)、蓮華草のうるわしきに見惚れ、白紫とりどりの菫の愛らしさに心をひかされ、桃の花美しきに我を忘れ、上秋津の葉枯れし凱旋門に都を偲び、機(はた)織る乙女の鄙歌(ひなうた)に言い知らぬ感に打たれ、里を離れ堤を伝い、かくて白竜の滝を見しときの嬉しさ。

 奇絶峡とや、げに。されど、奇なる山、怪なる石、玉と散りつつ流るる水、それらを一々説かんは烏滸(※おこ:愚かなこと)なり。何となれば、この記事を掲ぐる本紙はこの勝景の専有主なる、田辺において発行せらるるものなればなり。

 道尽くる橋の袂に出逢いし、顔馴染の炭売女に教えられて寒村君が、暁に啼くという黄金の鳥の、姿を隠せるとかいう、お伽噺にありそうな、すこぶるロマンチック的な、岩扉の文字を読むべく、崖を下り、石を伝い、水を渡り、猿の如くと言いたけれど、すこぶる危うき足許にて行かる姿のおかしさ。
 が、ついにその字は読めざりしと、磨滅して。
 君に歌あり曰く、

  暁の気は呪文とくとぞ洞戸出でて
       金鳥うたふ山の秘めごと
  三千年のその昔(かみ)入りし金鳥の
       洞戸の呪文誰がとくらむか
  黒き山、大なる巌、白き瀑(たき)
       朝霧のうちに金鳥なくも

 驚いたのはやがて引き返した君が、流れに洗うた足を、その鳥打帽で拭われたことなり。

 それより引き返して滝の前の別桟敷とも言うべき大岩の上にて、妹が心を込めし弁当(その癖至ってお疎末な)を食べた味、今以て忘られず。それに寒村君が、景色の似通えりとて、かつて伝道行商せし折踏みし日光足尾辺の物語りも面白し。
 かくてある内、いつの間にやら黒暗闇たる黒雲渦巻き、パラリと落つる一雫にオヤとばかり、
「雨中の奇絶峡はさぞかしいいでしょうが」
と心は残しながらも、雨用意なき身のやむなくも帰り支度。

 されど天は情ありてか、注意の一粒を落とし後は曇りながらも雨も降らず。
 足の疲れを紛らさんとて唱歌、詩吟、讃美歌など口ずさみながら急ぐうち、ふと思いついて、妹の愛吟なる「滋賀の湖」という唱歌を教えて貰う。そのとき、我が社の投書家秋露生君に逢いぬ。

 かくて帰る途すがら、思い掛けなき一大事の起こりぬ。そは何? 不意に「キャッ」と叫んで顔色蒼然、胸を抱いて逃げ出でし寒村君。
 何事ぞ、読者は何と想像し給う? わらわは今それを説明せざるべし。されど、寒村君には極内々、ちょっと読者諸君へ耳打したきは、
「諸君がもし、寒村君を不倶戴天の仇敵とでも思し召すときがあれば、刃や弾丸を見舞う代りに、ちょっとでよいから長虫をお見せ遊ばせ、それこそ……」

 ようよう観流亭に辿りついて、病夫人を見舞い、痛む足を引き摺りながら、お留守番のバイオレットの、優し い顔を見たのは午後の四時。(その夜しるす)

〔幽月女『牟婁新報』第572号・明治39年(1906年)3月21日〕



底本:「管野須賀子全集 2」弘隆社
   1984年11月30日発行

※表記は底本のままではなく、旧字、旧かなづかいは常用漢字、現代かなづかいに改めています。一部、漢字をひらがなに改めている箇所もあります。

管野須賀子(かんの すがこ)

本名、管野スガ(かんの スガ)。明治時代の新聞記者、社会主義者。
女性の解放と自由を求めた女性ジャーナリストの先駆者。筆名は須賀子、幽月。
国家権力によるでっち上げの事件「大逆事件」で死刑に処された12人のうちのただ1人の女性。享年29歳。

明治14年(1881年)6月7日、大阪市に生まれる。
明治35年(1902年)7月1日、『大阪朝報』の記者になる。
明治38年(1905年)10月頃から和歌山県田辺町の地方新聞『牟婁新報』の社外記者になる。
明治39年(1906年)2月4日、『牟婁新報』に社主・毛利柴庵の入獄中の臨時の編集長として招かれて赴任。毛利柴庵の出獄後、5月29日に退社。
明治43年(1910年)6月1日に大逆罪で逮捕される。
明治44年(1911年)1月18日に死刑判決を受け、7日後の1月25日に死刑に処される。

(てつ@み熊野ねっと

2023.6.12 UP



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