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筆の雫

管野須賀子〔管野スガ〕

※内容的には熊野関連の文章ではありませんが、田辺近辺の『牟婁新報』読者に向けて自身の立場を表明した文章なので掲載しました。(てつ)


   優しき筆の雫、勇しき筆の雫、ああ、我が婦人諸君はいかに左の文を見んとはする。

 過ぐる十八日の「忙片」に柴庵先生の、

  熱烈なる感情、冷静なる理性、
  この外に少ばかりの稚気が入り用じゃ。

「稚気入用」の一句、まことに敬服の外なし。感情と理性の衝突、加うるに稚気の矛盾……かくてこそ始めて人生の趣味は深きなれ。わらわは一方に偏したる人を好まず。

 涙無き人、恋知らぬ人、ともに語るに足らじと思う。衷心より溢れ出づる一滴の清き涙は、人をしてよく百巻の書に優るの感動を与えしめ、熱烈なる恋愛の高潮は、あらゆる総ての情と愁とを焼き尽して顧みざる、驚くべき偉大なる力を人に与う。しこうして両者とも、人間のもっとも優しき情の権化なり。

 されど涙にも種類あるを忘るべからず、また恋愛と色情とは断じて混交すべからず。偽りの空涙、情愁の奴隷は、憎みてもなお余りある醜の極なり。

 戦後の経営、あるいは政治に、あるいは経済に、あるいは工業に、あるいは教育に、その種類多々あるべしといえども、我等婦人の上より言えば、婦人自身の自覚こそ、最も必要なる急務なるべけれと思う。

 因習の久しき、一種の財物視せられし我が邦婦人の奴隷的境遇は、先進文明国の位置に進みし今日、なお無形の鉄柵によりて自由を束縛せらるるにあらずや。

 衣を以って誇りとし、美食を以って満足し、観劇を以って最高の快楽となす憐れむべき婦人、即ち已れ一身の他に思いを及ぼさざる奴隷根性の薄命なる婦人はしばし置き、いやしくも多少の教育あり、多少の社会的知識をもてる婦人は、必ずや己が位置を顧みて、切歯憤慨し給うべし。

 されど婦人諸姉よ、男子すらなお、社会の不平等なる階級制度に拘束せられて、むなしくパンの奴隷となりおる今日、いかで我等が一躍して、自由の新天地に舞踏することを得べけんや、臆(ああ)。

 噫! 噫はまことに噫なり。されど諸姉、我等が噫はただ単に失望の極「万事休す」の嘆声にはあらざるなり。否、それのみに止むべきにあらざるなり。戦後の我が国が一新生面を開きし今日、我等が大いに活躍すべき新舞台が、徐々に廻り来りしこの好機会を利用して、我等は花形役者となりて、充分に活動せざるべからず。活舞台の大物となるの決心なかるべからず。

 我等が理想は、四民平等の社会主義なり。されど大廈(※たいか:大きな建物)は瞬間にして破壊し得ざるが如く、多年の月日を費して根を堅めし今日の階級制度は、一朝一夕に覆えすべからず。急激に事を行わんとすれば、かえって失敗の歴史をのみくり返すに止まるべし。しかれば我等はこの理想を希望として光明としてまず第一根本たる「自覚」を為し、自らを養い品性を高め、しこうして後徐々に、理想を現実に実行するの方法をとるべきなり。

 政治の何者たるをも知らず、社会経済の一部をも心得ず、世の大勢にも通ぜずして、何ぞ残酷なる社会と戦い、根深き階級鉄柵を破壊し得るの勇気あらん。

 励み給え婦人諸君、我等が出演の幕はすでに、すでに開かれたるにあらずや。

〔須賀子『牟婁新報』第535号・明治38年(1905年)11月24日〕



底本:「管野須賀子全集 2」弘隆社
   1984年11月30日発行

※表記は底本のままではなく、旧字、旧かなづかいは常用漢字、現代かなづかいに改めています。一部、漢字をひらがなに改めている箇所もあります。

管野須賀子(かんの すがこ)

本名、管野スガ(かんの スガ)。明治時代の新聞記者、社会主義者。
女性の解放と自由を求めた女性ジャーナリストの先駆者。筆名は須賀子、幽月。
国家権力によるでっち上げの事件「大逆事件」で死刑に処された12人のうちのただ1人の女性。享年29歳。

明治14年(1881年)6月7日、大阪市に生まれる。
明治35年(1902年)7月1日、『大阪朝報』の記者になる。
明治38年(1905年)10月頃から和歌山県田辺町の地方新聞『牟婁新報』の社外記者になる。
明治39年(1906年)2月4日、『牟婁新報』に社主・毛利柴庵の入獄中の臨時の編集長として招かれて赴任。毛利柴庵の出獄後、5月29日に退社。
明治43年(1910年)6月1日に大逆罪で逮捕される。
明治44年(1911年)1月18日に死刑判決を受け、7日後の1月25日に死刑に処される。

(てつ@み熊野ねっと

2023.6.4 UP



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